オーストリア散策シシー > 年代記No.02
前に戻る


幸せだった子供時代 - 1840年代



シシーは次女で、兄弟姉妹にはルートヴィヒ・ヴィルヘルム、ヴィルヘルム、ヘレーネ、カールテオドール、マリー、マティルダ、マクシミリアン・エマヌエルといった7人がいました。いろんな本を読んでいると、この中でシシーといちばん仲がよかったのは弟のカール・テオドール(愛称はガックル)のようですね。で、この弟はのちに領主や聖職者の道を歩まず、欧州で有名な医師になってます。

シシーたちは冬の間をミュンヘンのルートヴィヒ通りにある館で過ごし、夏はシュタインベルク湖のほとりにあるポッセンホーフェン城で暮らしていました。この城は父のマクシミリアン・ヨーゼフ公がシシー誕生の3年前(1834年)に買い求めたもので、家族の間では「ポッシ」という愛称で親しまれていました。

ポッセンホーフェン城は馬や犬(かなり大型)などの動物がたくさんいて、子供の遊び場にはとてもいいところでした。また、シシーたちは当時の王侯貴族の子弟と違っていつでも両親に会ったり甘えたりできる環境にあったうえ、父親がかなりの放任主義者だったおかげで、とても自由な子供時代を過ごすことができました。

とはいえ、あまりに開放的な生活のおかげで、シシーはどんどん野生児になるばかり。これをマズイと思ったお母さんのルードヴィカは1846年のある日、ルイーズ・ヴェルフェン男爵夫人をシシーの家庭教師に就けました。で、1日の時間割は8時前に母親といっしょに朝食をとり、そのあと午後2時くらいまでは勉強で日本のゆとり教育と大差なかったのですが、これでもあまりうまくはゆかず。お気の毒なことにこの先生はいつもシシーを追うことに忙殺されるハメとなりました。なぜなら、陽気な父のマクシミリアン・ヨーゼフがシシーをすぐ遊びに誘い、連れ出していったので。

ヴェルフェン男爵夫人によると、シシーは8人の子供たちの中で最も優しい半面とても夢見がちで、ついでにすごく慌て者だったそうです。ただ、好きなことに関してはすごく綿密に行動をするところもあったといいますけど。また、シシーの好きな科目は作文、外国語、絵画で、父の影響のせいか、詩作もしていました。一方、貴族の子弟の一般教養として必要な歴史、音楽、作法にはまったく興味を示さず、もちろんデキもサイテーだったのだとか。まあ、こうしたことはシシーに限らずどこの子だってイヤでしょうけどね。そうそう、シシーは勉強ができない代わりに、馬に乗って走ったり大きな犬と遊んだりすることなら大の得意でしたよ。

姉のネネはお利口さんで、デキも大変によかったそうです。たぶんお母さんに似たのでしょう。一方、夢想家で自由気ままなシシーは、子供たちの中で最も強くお父さんの気質を強く受け継いでいました。そのため、マクシミリアン・ヨーゼフはシシーにすごく甘かったといいます。

ところで、こんなシシーが初めて打ち明け話をした相手は人間じゃなくて馬だったんだそうですよ。このへんには、のちのウィーン時代に鮮明となってくるちょっと内気な一面の前兆も表れていますね。

また、子供の頃のシシーは伝説の美しさと縁の遠いもので、頬の赤い農家の娘という感じだったと言われています。そりゃ、野原を駆け回ってばかりいたらハイジみたいになるのも当然でしょう。それと、シシーのお父さんは地元の農民にチターを習って、これを酒場で演奏なんかしてたそうですが、そのときシシーはお代をいただく役目をしたんだそうです。で、村人たちは庶民の酒場に出入りする物好きな公爵とその娘に「なんだこりゃ?」と思いながらも、その身分に気づかないフリをして小銭を投入。で、シシーはそのときのお金をずっと大切に持ち、のちにウィーンの宮廷で「これは私がちゃんとお仕事として稼いだ唯一のお金よ」と自慢していたそうです。

まあ、そんなわけで、王家の血筋を継ぐ者としてはずいぶん難ありとはいえ、シシーの子供時代はとても幸福なものでした。とりあえず今日のところはめでたしめでたしでいいでしょう。





前に戻る