オーストリア散策シシー > 年代記No.01
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シシーの誕生 - 1837年



エリザベート(愛称はシシー)はバイエルン侯爵マクシミリアン・ヨーゼフとその妻ルードヴィカの次女として、1837年のクリスマスイブの日の午後10時41分にミュンヘンのルートヴィヒ通りの館で誕生しました。なかなか日取りがいいですね。しかもその年のイブは日曜日でもあったことから、「この子の人生は勝ったも同然!」と思われていたそうです。のちにそれは迷信だったと判明してしまいますが。

エリザベートという名前は、代母となった叔母のプロイセン王妃エリザベートから貰ったものです。それと、この代母というは別にシシーを育てる役の人だったたわけではありません。ちゃんと実母のルードヴィカのもとで育ってますから。代母を決めるというのは、単なる形式的な儀式だったようですね。

また、生まれたばかりのシシーにはすでに歯が1本生えていたのですが、これはなんとナポレオンと同じ。おかげで人々は「この子は偉大な人間になるぞ!」という期待も抱いたそうです。その歯のせいかどうかはわかりませんけど、確かににシシーの乗馬姿とナポレオンのアルプス越えのインチキ乗馬の絵は、なんだか果敢なところがよく似てますね。

騎乗のシシー 騎乗のナポレオン

シシーのお母さんのルードヴィカは元々名門・ヴィッテルスバッハ家の王女(初代バイエルン国王マクシミリアンの娘)で、お父さんのマクシミリアン・ヨーゼフはその分家出身の侯爵でした。つまり、家柄ではお母さんのほうが格上ということになります。そのせいか、マクシミリアン・ヨーゼフはご領地にも家庭にも全然責任感の見受けられないお気楽な人でした。気さくで教養があって身のこなしもスマートだったのですが、常識にはかなり程遠く、ついでに公務や儀式は大嫌いときています。で、娘のシシーがこれまた自由奔放な夢想好きでしたから、地味なれど堅実なルードヴィカがいなかったらこの家庭は到底持ち応えられなかったでしょう。

ついでながら、当時のミュンヘンを「南ドイツのアテネ」に大改装したバイエルン国王ルードヴィヒ1世はシシーのおじさんで、のちにお城を作りまくって国家財政を破綻しかねない状態にした狂王ルートヴィヒ2世はシシーの従兄弟にあたります。どうもヴィッテルスバッハ家というのは芸術道楽で浪費をする家系みたいですね。





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