オーストリア散策エピソード > No.144
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ハプスブルク時代前の都市分布
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今のオーストリアの人口上位20都市
13世紀のオーストリアの都市
今のオーストリアの人口上位20都市 13世紀のオーストリアの都市


上の2枚の地図は、今のオーストリアの人口上位20都市(上位といっても20位だと2万3千人しか住んでませんが)とバーベンベルク家が断絶した直後(ハプスブルク家がオーストリアに来る30年くらい前)に都市権をもっていた同国最古の20都市の分布を示したものです。さすがに700年以上も経つとそれなりに状況は変化してきますね。今の主要都市は明らかに中世よりもオーストリア本土の内側に集まっています。でも、なぜ中世の都市はもっと散らばっていたんでしょうね? そのヒントを探るため、今日は当時の都市のひとつひとつをちょっと覗いてみましょう。

下の地図は1250年の都市分布を拡大したものです。@〜Sが最古の20都市で、A〜Fはついでにちょっとマークしておきたい重要な都市です。これを見ると、まず目立つのは赤い丸で囲んだ部分に古い20都市の半分が集中していることですね。このあたりは現在のニーダーエスタライヒ州(下オーストリア州)とオーバーエスタライヒ州(上オーストリア州)にあたる場所で、その名が示すとおり実は「オーストリア発祥の地とそれを囲む一帯」だったんですよ。また、この地域の北では、当時中欧最大の勢力を誇ったオットカール王のボヘミア王国が大繁盛していました。となると、交易に精を出すにせよ戦争に備えるにせよ、DのヴァイトホーフェンやEのドローセンブルクのようにボヘミアとの国境近くが重視されるのは自然の成り行きですね。また、鉄道も自動車もなかった時代に物資を最も効率よく運ぶには船がいちばんです。よって、西はIのヴェルス、Hのリンツ、GのエンスからAのザンクト・ペルテン、@のウィーンを経て東はハンガリーにつながるFのハインブルクまで、ドナウ川沿いの地域にも都市が連なるのはナルホドという感じです。そういえば、Cのラー・アン・デア・ターヤもドナウ川の支流にあって、船の便が使えるところでした。

12世紀〜13世紀に都市権を得たオーストリアの町 (別窓の一覧表はこちら)
12世紀〜13世紀に都市権を得たオーストリアの町


そうそう、こちらの別ウィンドウ表示のリスト(各都市の都市権取得年と今の人口の一覧表)をごらんいただくとわかりますが、せっかく13世紀前半から都市権を獲得しながら今では人口1万人以下の閑古鳥都市が上の地図には6つあり、そのうち5都市はなんとボヘミアの近くにばかり集中しています。これ、第一次世界大戦後にハプスブルク帝国が解体されてオーストリアとチェコの間に壁ができたことや、そのチェコが共産党権下でビンボーになっていったことと無縁ではないでしょうね。

なお、上の地図の赤い丸の中にあるBのクロスターノイブルクは12世紀末にバーベンベルク家が本拠を構えたところなので、1250年までに都市権を獲得していた可能性がありそうです。また、Aで示したヴィーナーノイシュタットも12世紀末にバーベンベルク家が東方からの敵軍に備えて建設した都市(イギリスのリチャード獅子心王の身代金で作った都市)ですから、1250年にはすでに都市権をもっていたかも知れません。    

次に、青い丸で囲んだ場所を見てみましょう。このあたりは現在のオーストリアでいうとシュタイアーマルク州とケルンテン州にあたります。で、この2つの地域はあとからバーベンベルク家の所領になったのですが、特に今のイタリアと国境を接するケルンテン州にはローマ法王の傘下の司教領という町も少なくありませんでした。例えばNのフィラッハは一度もバーベンベルク家のものだったことがなく、18世紀になってハプスブルク家のマリ・テレジアがお金を払ってブリクセン司教から購入した都市です。また、Oのフリーザッハも司教によって建設された町です。

それから、Lのユーデンブルクはベネツィアとの交易を中心に成長した都市でした。よって、たとえ司教の影響が相対的に小さかったとしても、経済や文化などあらゆる面で当時はオーストリア本土よりイタリアとの結びつきのほうが強かったといえそうです。今のオーストリア第2の都市であるCのグラーツが1250年の段階で都市権をもたず、ウィーンとシュタイアーマルク州やケルンテン州の間に大きな無都市空間ができているのも、そうしたところに理由があるのでしょうね。

ちなみに、ピンクの丸で囲んだところにあるPのハラインとEのザルツブルクも元々司教領で、これらがオーストリアに編入されたのはなんと19世紀に入ってからです。また、今では人口が多いザルツブルクよりもハラインのほうが先に都市権を獲得しているのは、ここに岩塩鉱山という大きな資金源があったせいかと思います。

さて、次は緑の丸で囲んだ部分に目を向けてみましょう。ここではQのリエンツとRのインスブルックが早くから都市権を獲得しています。が、これらの都市はいずれもバーベンベルク家のものではありませんでした。1250年当時ここを治めていたのは、今のイタリア北部にあるメラーノ(ドイツ名はメラン)のあたりに本拠を置いていたチロル伯爵です。で、インスブルックの主は本流のチロル家、リエンツを治めていたのはその傍系のゲルツ家でした。だから、リエンツやインスブルックはバーベンベルク時代のオーストリア本土とはこれまた関係がわりと希薄でした。で、イタリア以外との交通が不便なリエンツは今じゃ人口上位20都市から完全に脱落しています。もしチロル伯爵家やゲルツ伯爵家がしぶとく19世紀くらいまで断絶せずに続いていたら、リエンツの運命はまた別なものになっていたでしょうね。

おしまいは水色の丸で囲んだ地域です。ここにあるSのフェルトキルヒは当時モントフォールト伯爵の領土で、これまたバーベンベルク家には関係ありませんでした。また、その上にあるFのブレゲンツもモントフォールト伯爵の治めていた土地なのですが、ここはケルト人の時代から町があったところで、のちにやってきたローマ人たちもそこに町を構え、紀元前15年の段階ですでにローマ帝国から都市権を与えられています。よって、ブレゲンツも1250年には都市権をもっていた可能性があります。が、それにしてもチロルのインスブルックとはずいぶん離れすぎですね。

以上のようなわけで、今から750年前のオーストリアは都市が5つのグループに分かれて存在し、どの地域も今のオーストリアではなく、むしろ隣りのボヘミア、ハンガリー、イタリア、シュヴァーベン、バイエルンのほうを向いていたようです。ちなみに民族という点でいえば、いちばん西のブレゲンツやフェルトキルヒに住む人たちだけはスイスや独南西部と祖先が同じアレマン系ですが、それ以外の地域はすべて元バユバール系です。が、その人たちが同民族出身同士ではなく隣りの異民族のほうを向いていたというのはちょっと面白いことですね。

なお、オーストリアの都市の勢力図に最後の一撃を加えたのは、どうやら鉄道のようです。現在と1250年の主要都市の分布に今のオーストリアの幹線鉄道を重ね合わせてみると下の2枚の地図のようになりますから。これによると、今の主要都市の中で幹線鉄道から10km以上離れているのは2つ(クレムスとシュタイアー)だけですね。しかし1250年の都市では約半分の9都市がその沿線からはずれています。    

今の上位20都市と幹線鉄道
13世紀主要都市と今の幹線鉄道
今のオーストリアの人口上位20都市と幹線鉄道 13世紀のオーストリアの都市と幹線鉄道
   

◆参考資料:
Wikipedia - Liste der Staedte in Oesterreich
http://de.wikipedia.org/wiki/Liste_der_St%C3%A4dte_in_%C3%96sterreich
Wikipedia - Bregenz, Drosendorf-Zissersdorf, Eferding, Enns, Feldkirch, Graz, Hainburg an der Donau, Judenburg, Klagenfurt, Klosternueburg, Laa an der Thaya, Lienz, Linz, Villach, St. Poelten, Waidhofen an der Thaya, Wiener Neustadt, Azettl
http://de.wikipedia.org/ (枝URLは省略)



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