オーストリア散策エピソード > No.141
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ウィーンに凱旋しなかったプロイセン
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シシー(エリザベート皇后、1837-1898)といえばいつも列車で旅ばかりしていたので、「カイゼリン(Kaiserin:皇后)ではなくライゼリン(Reiserin:旅女)」という陰口を叩かれていました。が、夫の皇帝フランツ・ヨーゼフ(1830-1916)は新しい技術を信用していなかったもようで、むしろ鉄道嫌いたったのだとか。まあ、鉄道を信用しないという点ではウィーンの市民たちも皇帝と大差ありませんでしたけど。ただ、ウィーン市民のほうは生真面目な皇帝と違って、安全性がアテにならないからこそ「怖いもの見たさで鉄道を使う」というお気楽ぶりも発揮していましたよ。

このフランツ・ヨーゼフが当時のハイテク技術を毛嫌いしていたとき、お隣りのプロイセンではハイテク大好きの参謀総長モルトケ(1800-1891)が次の戦争に備えてオーストリアとの国境まで鉄道や通信網をせっせと築いていました。そして1866年、イタリアと手を結んだプロイセンはオーストリアに宣戦布告、普墺戦争の火蓋が切って落とされました。この戦争でのオーストリアは、イタリア相手の戦いこそボロ艦隊でどうにか勝ったのですが、北部でプロイセンを相手にしていたスーダラ陸軍のほうはそういうわけにもいかず。通信と鉄道を駆使して神出鬼没の敵軍に翻弄され、トホホな敗北を喫してしましました。もっとも、もしフランツ・ヨーゼフがハイテク好きだったらプロイセンとの戦争は長期の泥沼化が必至で、犠牲者の数も膨大になっていたでしょう。その意味でいうと、この人がハイテク嫌いなためにオーストリアがあっさり負けたのは、一概に悪いこととも言えませんね。

さて、オーストリア軍に大勝利をして気をよくしたモルトケは、「ウヒョヒョ、さあ、ウィーンに入城だ!」と気勢を上げました。しかし、ここでそれに待ったをかけるおじさんが。その人は、モルトケとすごく仲の悪かったプロイセンの宰相ビスマルク(1815-1898)でした。といっても、ビスマルクは別に意地悪してモルトケのウィーン凱旋に「やめとけ」と言ったのではありません。ほかの国とまだまだ戦争をしなければいけないので、余計な恨みは背負いたくなかったのです。

余談ですが、ビスマルクという人は「鉄血宰相」なんていう強そうな別名をもっていますけど、実際にはどこかナイーブで子供っぽい面があったそうです。例えば自分の意見が通らないとダダをこね始め、それでもダメなら「ウエーン!」と泣き出してしまうところもあったのだとか。で、ビスマルクの泣き落としが効いたのかどうかは知りませんが、普墺戦争のあとのプロイセン軍は結局ウィーンに凱旋をしませんでした。

一方、戦争に負けたオーストリアは当然のことながらすっかりショボーンとなりました。ヨハン・シュトラウスが国民を勇気付けるために「美しく青きドナウ」を作曲しても、全然効果なしです。が、いつまでたってもプロセン軍がウィーンを占領しに来ないので、「もしかしたら本当は負けてないのでは?」という疑問をもつ人が出てきて、おしまいには「負けもいてないのに逃げてくるなんて、オーストリア軍はけしからん!」という声まで出てくる始末。おかげでプロセンよりもむしろウィーンの宮廷のほうがよっぽど反感を買いそうな雲行きも一部にあったほどです。

それから4年後の1870年、ビスマルクが上手にフランスを怒らせて、今度は普仏戦争が勃発しました。もちろん、敵を怒らせる前には、ちゃんとモルトケがフランスに向けて鉄道と通信網を整備。おかげでこの戦争もプロイセンの勝利(1871年)で終わりました。そしてモルトケはまた、「ウヒョヒョ、さあ、パリで凱旋だ!」と気勢を上げ、ビスマルクは「こらこら、そんなことをしたらフランス人の恨みを買うじゃないか!」とたしなめました。が、今回は対オーストリア戦のときと違って、パリに凱旋しちゃえといことになります。しかも、アルザス・ロレーヌ地方をドイツに併合し、ヴェルサイユ宮殿で派手にドイツ皇帝の戴冠式までするというオマケ付きで。これ、いくらなんでもやりすぎという気がしますけど。ビスマルクはさぞかし「ウエーン!」と泣いたことでしょうね。

それにしても、オーストリアに勝ったときのプロイセンは帝都占領のお仕置きをしなかったのに、なぜフランスに勝ったときは必要以上に相手国の感情を逆撫でしたのでしょう?これには、単にドイツとオーストリアが同じゲルマン系の国だからということ以外にも理由がありそうですよ。

そこでちょっと歴史を遡ってみますと。ナポレオンの時代にプロイセンはフランスからだいぶ屈辱的な目に遭っています。そしてベルリン大学の初代哲学教授だったフィヒテ(1762-1814)が「ドイツ国民に告ぐ」という演説で、「ラテン語起源の難しい単語が多いフランス語じゃなく、ゲルマン古代からの語彙が豊富なドイツ語は万人が学問をするのに有利。ドイツ人はこれからたくさん勉強していつかフランスをやっつけよう!」と訴えていました。だからモルトケがいっぱいハイテクを勉強したんですね。

一方、オーストリアもマリア・テレジア(1717-1780)の時代にハーディク将軍がベルリンを陥落させたこと(エピソードNo.115)があります。しかしこれはごくわずかの手勢を大群のフリしてやったジョークで、最初からベルリンを本気で占領するつもりなどさらさらなし。よって、オレオレ詐欺みたいに相手を騙して賠償金を分捕ったらさっさと逃げています。しかも当時の軍隊は途中の町や村で略奪や放火の副業をするのが普通だったのに、ベルリンに向かったオーストリア軍は首都を数日だけ落とすギャグに専念していて、強盗はいっさいせずでした。だからのちのちにプロイセンの国民から大して恨みを買っていなかったのです。

以上のことから見て、やっぱり戦争で勝った時は調子に乗って相手国がイヤがることをあまりしないほうが、あとあとのことを考えれば身のためですね。今戦争中の国やこれから戦争をしようと考えている国の人はこのことをよく覚えておきましょう。最初から戦争しなければ、あとから余計な気配りをする手間も省けてなおよしですが。    

◆参考資料:
Wikipedia - Helmuth Karl Bernhard von Moltke
http://de.wikipedia.org/wiki/Helmuth_Karl_Bernhard_von_Moltke
Wikipedia - Deutscher Krieg
http://de.wikipedia.org/wiki/Deutscher_Krieg
Wikipedia - Deutsch-Franzosischer Krieg
http://de.wikipedia.org/wiki/Deutsch-Franz%C3%B6sischer_Krieg
ドイツハンドブック - 歴史>ドイツ統一への道>ビスマルクの登場
早川東三、堀越幸一、日高英二、上田浩二、岡村三郎編、三修社



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