オーストリア散策エピソード > No.130
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モーツァルトの未完の肖像画のワケ
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未完成のモーツァルト画
未完成のモーツァルト画

ザルツブルクのモーツァルト(1756-1791)の生家には、上の写真のような肖像画(1889年-1890年作)があります。これ、中途半端なところで描き終わってますが、作者が途中で死んじゃったというわけじゃありませんよ。この絵を描いた人はモーツァルトの2倍くらい長生きをしていて、むしろモーツァルトのほうがこの絵の1年前に亡くなっているくらいですから。ちなみに、その人はモーツァルトの妻コンスタンツェ(1762-1842)の肖像画も描いていますが、下の画像をご覧になっておわかりのとおり、こちらのほうはマトモに完成しています。    

コンスタンツェ
コンスタンツェ

さてそれじゃ、なぜモーツァルトの肖像画だけは完成しなかったんでしょう?これ、本人が病没直前でモデルの役目に耐えられずでは面白くないので、別な説をあたってきました。すると、これには面白い理由もあり得るようですよ。それは、モーツァルトがかつてコンスタンツェの姉であるアロイジア(1760-1830)に恋しをたことに発端があるという説です。

アロイジア
アロイジア 

モーツァルトは21歳のときパリに向かう旅の途中でマンハイムを訪れ、ここでヴェーバー家の次女アロイジアに出会いました。当時のアロイジアは、音楽の才能あふれる美しい16歳のソプラノ歌手でした。で、モーツァルトはこのアロイジアにすっかり惚れ込んでしまいます。もっとも、これは片思いだったようですけどね。というのも、モーツァルトがアロイジアに宛てて書いた手紙(なぜかイタリア語)をよく読むと、「..... spero che Lei stia d'ottimo salute .... (あなた様におかれましてはご機嫌この上なきことを)」といったよそ行きの文章が書かれていますから。    

その後アロイジアはミュンヘンの歌劇場で大活躍をするようになりました。そして、パリからの帰途でミュンヘンに寄ったモーツァルトはアロイジアに再会し、ここで求婚をしようとしました。しかし、これは失敗に終わっています。アロイジア自身の気持ちはどうだったかよくわからないのですが、その母親のツィツィーリアが娘の婿に金持ちを望んでいたことが大きな障害になっていたのは確かでしょう。なにしろその頃のモーツァルトは求職中の身でしたから。

ちなみに、ここでツィツィーリアがアロイジアの結婚相手として狙いを定めたのは、ウィーンで人気の宮廷俳優をしていたヨーゼフ・ランゲ(1751-1831)でした。ランゲがアロイジアに好意を持ったと知るや、ツィツィーリアはさっそく「アロイジアと付き合いたかったらこの文書に署名しなさい」といいました。その契約書には、「もし数年以内にアロイジアと結婚しなければランゲはヴェーバー家に700ドゥカーテンの年金を払うべし」と書いてありました。この金額、当時のモーツァルトにとっては大金だったでしょうけど、ランゲにとっては許容範囲でした。そしてランゲは書類にサインをしてアロイジアと付き合う許可を獲得、2人は1780年に結婚しました。で、実はこのアロイジアと結婚したランゲこそ、未完成のモーツァルトの肖像画を描いた人だったのです!    

アロイジアとの結婚後、絵心のあったランゲは1782年にアロイジアの妹であるコンスタンツェの肖像画を描き、これは無難に完成しました。さらに、1789年にはコンスタンツェの夫(1782年に結婚)であるモーツァルトの肖像画も描き始めたのですが、どうもその途中で昔モーツァルトが昔アロイジアに恋したことを知ったようです。で、これに嫉妬してつむじを曲げたランゲは、その絵を途中で放棄。こうして未完成のモーツァルトの肖像画が出来上がったんだそうです。    

しかしですね、10年ちょっと昔の、しかもモーツァルトの片思いと思しき恋にランゲがこうした反応を示すというのはちょっと過剰ではありませんか?これってある意味で本人の自信のなさの表れという気もするのですが。

そこでちょっと調べてみたところ、ランゲはアロイジアと結婚する1年前の1779年に前妻と死別し、3人の子供を抱えていました。つまり、アロイジアは結婚早々から子供たちの面倒をみなくていけなかったのです。これ、けっこう大変じゃありませんか?そして、いくらルンゲがお金持ちとはいえ、母親のツィツィーリアが自分の娘の結婚相手にこうした人を選ぶというのは、なんだか身勝手な気もします。たとえ多少収入は少なくても、初婚のモーツァルトのほうがずっとラクだったかも知れませんよ。こうしてみると、ランゲが危機感をもったのにも、それなりのワケはあったんですね。

ちなみに、モーツァルトが亡くなったとき妻のコンスタンツェは葬式に参列しませんでしたが、アロイジアはなぜかそこにちゃんと行っていたんだそうです。母親の圧力がなければ、ホントはモーツァルトを選びたかったのかも知れませんね。その後のアロイジアはランゲと離婚しました。

なお、コンスタンツェはしばしば悪妻呼ばわりされていますけど、本人の名誉のために付け加えるなら、この人はデンマークの外交官であるゲオルク・フォン・ニッセン(1761-1826)と再婚したあと、まるで別人のような良妻賢母になりました。これ、冷静に考えるなら、本当の問題があったのはコンスタンツェじゃなくモーツァルトのほうだった可能性のほうが高いと思いますよ。また、モーツァルトの妻だった頃のコンスタンツェは病気療養の湯治場めぐりで散財をしていたといいますが、ニッセンと結婚してからはそういう療養も不要になったようですね。そう考えると、コンスタンツェの湯治場めぐりって、シシーのウィーン逃避の旅とダブってきませんか?そして、コンスタンツェが逃避の旅に入ったのは、モーツァルトがアロイジアに心を残していたからという気がしてなりません。

もしツィツィリア・ヴェーバー夫人が金銭勘定などほどほどにして、モーツァルトがアロイジアに近づくことを快く受け入れていたら、コンスタンツェの湯治場療養もアロイジアの離婚もモーツァルトの早死にもなかったかも知れません。その意味でいうと、未完成だったモーツァルトの肖像画は、「欲をもちすぎるとダメ」という教訓の1枚なのかも知れませんね。

◆参考資料:
モーツァルト - 第五章 若者はさすらいの旅に出る
田辺秀樹著、新潮文庫
音楽の冗談 - モーツァルトの妻の悪妻度
http://oak.zero.ad.jp/~zaf15903/Jordan/Classic/Konstanze.htm
Mozart Vida e Obra - Aloysia Weber Lange
http://mozart.infonet.com.br/Aloi.htm
http://homepage3.nifty.com/classic-air/feuture/fueture_40.html
Che zY - モーツァルト・コン・グラーツィア > モーツァルト最後の年
Wikipedia - Constanze Mozart
http://de.wikipedia.org/wiki/Constanze_Mozart
Classik Air - Vol.50 コンスタンツェ モーツァルト
http://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/bx/landon0102.html



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