オーストリア散策エピソード > No.127
前に戻る


グラーツの時計塔の変な針
line


グラーツの時計塔
グラーツの時計塔

オーストリア東南部・シュタイアーマルク州の州都グラーツには、古くから地元の人々に大変愛され続けてきた時計塔があります。が、その時計が示す時刻は外から来た人にとって、ちょっとわかりにくいですよ。下の写真はその塔についている時計の部分をアップにしたものですが、これって何時を指しているのか分かりますか?まず第一に、金色の針と先に月のついた黒い針の2種類があるところは紛らわしいですね。でも、目立つ針のほうが時刻を指して地味な針はオトリ(好意的に見れば飾りともいえますが)の可能性が高いことは誰でも察しがつくでしょう。しかし、だからといって安易に「答えは6時18分」という人がいたら、グラーツの人々の思うツボです。普通の時計なら長いほうが分針で短いほうは時針ですが、グラーツの時計塔はその逆なのですから。つまり、下の時計が示している時刻は「3時32分」が正解です。

時計板の拡大写真

とはいえ、グラーツの町で普通に売っている時計は他の国と同じで、短い針が時針、長い針は分針となっています。となると、なんでこの時計塔だけ分針と時針は逆なのかという疑問が湧いてきますね。それにこの針は2本とも先が金ピカで不自然に太く、なんだか大袈裟です。いったいなぜこんなものができたんでしょう?    

当然のことながら、そうしたミステリーにはそれなりのワケがありました。もちろん、全然大したことのないトホホ系のワケですけど。でも、それをお話しする前に、この時計塔の生い立ちをちょっとご紹介しておきましょうね。    

文献にこの時計塔の原形らしきものが初めて登場したのは、ボヘミア王オットカルがシュイアーマルクの地に影響力をもっていた1265年のことでした。場所はグラーツの町全体を見下ろすシュロスベルク(日本語にすれば「城山」)という高さ473mの山の上です。もっとも、機械時計が発明されたのは14世紀に入ってからのことですから、当初の塔は時計なしでしたが。また、その後の改築によって1560年(1550年や1561年と記載している資料もあって年代はかなりいい加減)には現存する塔の形が定まったとされていますが、この時点でも時計はまだついていません。この塔の上部にある4つの角の物見櫓みたいなのを見ればご察しはつくと思いますが、元々は敵の来襲を見張るためだけに作った塔のようです。で、それから約1世紀半を経て、1712年にミヒャエル・スィルヴェスター・フンクという人の作った時計が取り付けられ、ここにやっとグラーツの時計塔が完成となりました。そして、当時の時計は今でも現役で動いています。ただし、駆動のほうは電気に改造されていますけどね。    

さて、こうしてできた時計塔の役目は、城の人々ではなく、むしろ山の下にあるグラーツの町の人々に時刻を知らせるというものでした。当時といえばドイツなどで騎士や土着の豪族の没落と都市の興隆(ゲーテのゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲンという作品にその世相が反映されています)という流れがあった時代でもあり、市民にタイムアナウンスサービスというのもナルホドどいう気がしますね。でも、旧市街地から時計塔までの距離はけっこうありますから、時計の表示はかなりシンプルにしないとよく見えません。また、1712年といえば今の時代のように人の暮らしが分刻みというわけでもありませんね。そんなわけで、「まあ、おおまかな時刻がひと目でわかったらいいだろう」ということになり、グラーツの時計塔は時針1本だけでスタートすることになりました。また、より遠くの人にも時刻が見えるようにするため、その時針は目いっぱい長くされて、ついでに針の先もよく目立つように派手なものとなったようです。    

ところがのちの時代になると少しは世の中が忙しくなってきたのか、はたまた時計製造技術が向上して職人が腕に自信をつけてきたのか、「この時計塔に分針もつけよう!」ということが決まりました。しかし、以前からある時針より長い分針を付けると、針が時計板からはみ出してみっともなくなります。そこで仕方なく、時針よりも短い分針が取り付けられることになりました。どうです、やっぱりトホホでしょ。    

もっとも、この時計塔はいつもトホホばっかりだったわけではありませんよ。グラーツで何度か起こった大火のときは、「火災警報鐘」としてしっかり働いていたそうですよ。だからこそグラーツの人々もこの塔に愛着を感じてきたのだと思います。    

そうそう、グラーツの人々がこの時計塔に示す愛情については、1つちょっとしたエピソードがありますよ。それは、オーストリアがナポレンの率いるフランス軍と戦闘や休戦を繰り返していた時代のことでした。1809年、グラーツはフランス軍に占領され、お仕置きに城や時計塔などが破壊されそうになりました。で、グラーツの人々は「お願いだから時計塔だけは勘弁して!」と懇願。そして、戦争時の窮状にもかかわらずムリして大金を払い、やっとの思いでこの時計塔を救い出したのです。一方、城(主はハプスブルク家)のほうは見殺しだったのでフランス軍に爆破され、その跡地は公園になりました。おかげでシュロスベルクは「城のない城山」となり、その風通しがよくなった山の上に時計塔だけが今でも涼しげに立っています。まあ、初期のボロ塔時代も含めれば時計塔のほうがハプスブルク家よりも早くからグラーツの町を見守ってきたのですから、城ぐらいならぶっ壊されたって構わないでしょう。    

P.S. 上の写真にはオリジナルの時計塔と同じ形で黒い色をした塔が映っていますが、これは2003年に何かのアートのつもりで作られたイベント品で、その後は撤去されているとのことです。

◆参考資料:
Wikipedia - Grazer Uhrturm
http://de.wikipedia.org/wiki/Grazer_Uhrturm
www.cosmopolis.ch - Die Geschichte von Graz
http://www.cosmopolis.ch/cosmo51/graz_geschichte.htm
Graz Tourismus - Der Uhrturm
http://cms.graztourismus.at/cms/beitrag/10018654/328181
VR GRAZ.AT - Uhrturm
Wikipedia - 時計の歴史
VR GRAZ.AT - Uhrturm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88#.E6.99.82.E8.A8.88.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2

◆画像元:
Wikipedia - Grazer Uhrturm(グラーツの時計塔の写真)
http://de.wikipedia.org/wiki/Grazer_Uhrturm
Graz Tourismus - Der Uhrturm



line

前に戻る