オーストリア散策エピソード > No.121
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「会議は踊る」はなぜ名言?
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ド・リーニュ侯
ド・リーニュ侯

ナポレオン退治のあとにヨーロッパの旧秩序(反動体制ともいいますが)の奪回をすべく開かれた「ウィーン会議」といえば、「会議は踊る、されど進まず」ということばが有名ですね。しかし、私には「会議は踊る」が歴史に残るほどの名言にはどうしても思えません。ウスノロな会議ぶりを見てたら私にだって言えそうな台詞ですから。ということは、ホントはことばそのものよりも、言った人のほうに大きなポイントがあるんでしょうか?

そこで今日は「会議は踊る」のことばを残したシャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ侯について調べてみました。すると、この人はすごい人気を誇るウィーン名物の爺さんだということがわかってきましたよ。

ド・リーニュ侯はその名が示すとおりドイツ系の人ではなく、1735年にベルギーのブリュッセルで名門貴族の家に生まれた人でした。で、父の命令により軍人の道を歩むべく1755年にマリアテレジアの率いるハプスブルク家に仕え、7年戦争、バイエルン継承戦争、および対トルコ戦争で手腕を発揮。また文官としての才能にも恵まれ、1779年には外交官に任じられて、その後欧州各地の駐在を歴任しています。さらに1788年にはロマノフ家に転職し、エカチェリーナ2世からロシアの元帥に任命されました。そのあと再びウィーンに戻ってハプスブルク家に復職し、1808年にはオーストリアの元帥に就任。とりあえずお仕事はよくできる人のようです。

しかし、元帥まで昇進したわりにド・リーニュ侯自身には野心というものがあまり見られず、むしろ職務の傍らで励んでいた著述のほうに熱心とも思えるところさえあるほどです。しかも、ヴォルテール、ルソーといった当時の先端をゆく啓蒙思想家やドイツの文豪ゲーテとも文通するインテリぶりで、読書量もハンパじゃありませんでした。また、ロシアのエカチェリーナやオーストリアのマリア・テレジアに仕える一方で、その天敵であるプロイセン王フリードリヒ2世とも親交があるのは、別に節操がなかったからというわけではなさそうです。というのも、ホントに節操のないフランスの悪徳外交官タレイラン(フランスでは有能な外交官ともいいます)と違って、これといった敵はいないし、政治で一儲けをした形跡もありませんから。

マリア・テレジア亡きあとのド・リーニュ侯はヨーゼフ2世に仕えましたが、その次のレオポルト1世のときはいったん冷遇されました。また、フランス革命のときにはベルギーにあった本拠のご領地と財産が共和国政府の息のかかった勢力に没収され、経済的に大ダメージを受けています。しかし、それでもド・リーニュ侯には、愚痴って老けたり頭にきて荒れたりしたフシがありません。よほど明るく無欲な人だったんでしょうね。そのせいか、次の皇帝のフランツ1世はすでに70歳を超えていたド・リーニュ侯に王宮親衛隊長というヒマながらほどほどに収入のある職を与え、趣味の著述を心安らかにできるように取り計らっています。

こうしてみるとド・リーニュ侯はというのはとても好人物ですね。そして、仕事はデキるし、インテリで話し好きで、しかも明るく無欲で物腰もスマートとくれば、当然のことながら女性にはモテまくりでした。その人気はド・リーニュ侯がお爺さんになっても変わらなかったといいます。で、上流階級の有閑マダムの中にはド・リーニュ侯爵の追っかけをする人たちまでいて、何か洒落たことばを期待してはその館に来ていたのだそうです。もちろん、ちょっとでも気の利いたことばが出れば、それがウィーン中に広まったのはいうまでもありません。

ちなみにその有閑マダムたちが来ていたころのド・リーニュ侯の館というのは3階建てだったのですが、部屋は全部で3つしかありませんでした。1フロアーに1部屋って、どういう家なんでしょう?ひとことでいえばボロ家ですね。おまけにその部屋はだいぶ散らかっていたもようです。しかし、年老いてもド・リーニュ侯の背はシャキっとしていて、歩くときこそさすがによぼよぼだったものの、高い書棚に梯子で登るときの足取りはちゃんとしっかりしていたそうですよ。そして、こうした彼を人々は「ウィーン最後のロココ騎士」と認めていたそうです。バロック騎士でないところを見ると、筋肉系じゃなかったようですね。

また、ド・リーニュ侯には「紅の騎士」という異名があるのですが、これは館の壁だろうが馬車だろうが便箋だろうが、なんでも紅色にしていたせいだといいます。そして、これは軍人時代の服の袖や襟の色に対する郷愁じゃないかと言われていますけど、なんだか可愛いですね。インテリでありながらこうしたちょっと子供っぽいところもド・リーニュ侯の人気の秘密のひとつだったんでしょうか?

さて、ウィーン会議では本会議そっちのけで各国の王侯貴族が夜遊びに励み、これをビジネスチャンスと見たヨーロッパ中の高級娼婦たちも帝都に殺到。こういう連中がいっぱいきたおかげで風紀は乱れて物価も上がり、ウィーンの人々は大迷惑でした。さらに、「ウィーン会議のチンタラぶりはザクセンの地を狙うプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムとポーランドを狙うロシア皇帝アレクサンドル1世の陰謀じゃないか」という疑惑も浮かび、ウィーンには「誰かこの2人にガツンと言ってほしい」という気分が蔓延してきます。その折も折、かつては元帥まで務めたウィーン切っての人気爺さんであるド・リーニュ侯が「会議は踊る、されど進まず」と言って暗に「さっさと仕事しろ!」とぶちかましたものですから、人々は拍手喝采となりました。で、一応ロシア皇帝はカチンときて反論をしたらしいのですが、ド・リーニュ侯は得意の滑らかな舌でこれも一蹴。まさにウィーンの人々は気分爽快といったところでした。ちなみに、ド・リーニュ侯が言ったことばの原文(仏語)は「Le congres danse beaucoup, mais il ne marche pas.」で、会議は「踊る」どころか「踊り呆ける」という感じになっています。いいかげんにしなさいという気持ちがよく現れていますね。

こうしてみると、やっぱり「会議は踊る」ということばは人望あるド・リーニュ侯が絶妙なタイミングで口にしたからこそ価値のあった一言だったといえそうですね。他の王侯が言ってたら歴史に残る可能性は非常に低かったでしょう。歴史の裏にある感情というのは面白いものです。

余談ですが、ド・リーニュ侯はその後1814年に亡くなり、そのお墓はかつて豚山と呼ばれたことのあるカーレンベルクにあるのだそうです。で、そこにお墓がある理由は、ド・リーニュ侯がカーレンベルクをウィーン市民の遠足の地にするのに貢献した1人だからだといいます。これも人々に愛されたド・リーニュ侯らしい逸話ですね。

◆参考文献:
Wien ORF.at Im Graetzel - Graf von de Ligne neu restauriert
http://wien.orf.at/magazin/lustaufwien/graetzl/stories/1141/
Encyclopedia, The 1911 Edition, LoveToKnow TM - Cherles Joseph, Prince de Ligne
http://34.1911encyclopedia.org/L/LI/LIGNE_CHARLES_JOSEPH_PRINCE_DE.htm
会議は踊る 帝都ウィーン物語 - 紅の騎士ド・リーニュ侯、帝都をわかす
幅健志著、三省堂

Oesterreichische Lexikon Band 1 - von Ligne, Charles Joseph
Richart u. Maria Bamberger, Ernst Bruckmueller, Karl Cutkas著、
Verlagsgesellschaft Oesterreich-Lexikon



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