オーストリア散策エピソード > No.117
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ベルタおばさんの平和運動
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ベルタ・フォン・ズットナー
ベルタ・フォン・ズットナー

私がオーストリアに留学していた頃の1,000シリング札には、修道女っぽい服装をした意思の強そうな女の人の肖像画が載っていました。この人はベルタ・フォン・ズットナーという有名な平和運動家なんですが、本やネットで調べてみたところ、日本ではほとんど知られていないようですね。もっと知られていてもいい人物なんですが。そんなわけで、今日はベルタのことをみなさんにご紹介しましょう。

ベルタ・フォン・ズットナーは1843年6月9日、プラハの名門貴族であるキンスキー伯爵家に生まれました。同家が上級の軍人を何人も輩出していたこともあって、若いときのベルタは軍隊というものを特にどうこう思うことはなかったといいます。ただ、彼女の反戦思想の芽は20歳のときの逸話に早くもちょっと現われていますよ。

1863年のワルシャワ蜂起の前夜、ベルタはその指導者たちのパーティーに同席していました。で、そこにいた男たちは「勝ち目がなさそうだから反乱はやめとこうか」という雰囲気になっていたのですが、そこに奥方たちが口をはさんで「ポーランド男児たるもの、戦いを避けるとはなんたる恥晒し!」と軍人魂を吹聴。これを見たベルタは「女性のもつ理想的な男性像を勇者から平和主義者に変えなくてはいけない」と思ったのだそうです。そして、ワルシャワ蜂起は予想されたとおり失敗。ポーランド人は男性的論理の名誉にこだわるあまり、多数の犠牲者を出してしまいました。

今の時代でも多くの男性は「男たるもの、何か大きなことを成し遂げなくてはならない」と思いがちで、女性にも「男は頼れる存在であってほしい」という願望が根強く残っていますね。そして、戦争や紛争も絶えずどこかで起こっています。ベルタの思った意識改革の必要性は、まだまだ必要なのかも知れません。

話しを元に戻しまして、少女時代から語学や音楽に励んでいたベルタはとても聡明な女性だったのですが、家が裕福だったため30歳になってもほとんどニートに近い生活をしていました。が、さすがにこれ以上母親に経済的な依存をするのはまずいと思い、自活の道を探ることに。そして最初に目指したのは、なんとオペラ歌手になることでした。もっとも、これはあっけなく失敗に終わってますけど。で、次にベルタはズットナー男爵家で4人の子供の家庭教師になり、こちらのほうはいたったんうまくいったようです。また、ズットナー家では7歳年下のアルトゥールと仲良しになり、ベルタとこの若者は結婚を考えるようになりました。しかし、アルトゥールの両親はそれに大反対。そしてベルタは1875年、ウィーンを去ってパリにゆきました。

翌年、ベルタはパリでアルフレッド・ノーベルが出していた秘書募集の広告に応募して見事に合格。が、一説によるとノーベルはこの秘書募集で嫁さん候補を探そうとしていたとのお話しもあります。もっとも、ベルタはズットナー家のアルトゥールが好きでしたから、ノーベルの事務所は短期で退職しましたが。

ついでながら、このあとノーベルはゾフィー・ヘスという女性と知り合ってこちらが本命になりかけたのですが、1891年に彼女は他の男性の子を宿してしまい、これが元で縁談はご破算になりました。さらにゾフィーは後年、ノーベルとやりとりした218通の手紙をノーベル財団に高額で買い取らせてウッシッシ。ノーベルは本当に女運のない人ですね。もっとも、1876年(当時ゾフィーは20歳)に知り合ってから15年も結婚せずに放置していた点を見ると、自業自得なところもありますけど。

さて、パリで短期の滞在をしたベルタは結局のところズットナー男爵夫妻の反対を実力行使で突破、「ヤルときゃヤルわよ!」とばかりにアルトゥールと手に手をとり合って、ロシアのコーカサス地方にあるトビリシという町に駆け落ちしてゆきました。大変ご立派です!こういう女性はいいですね。

トビリシに移り住んだベルタとアルトゥールは語学や音楽のレッスンで生計を立てるとともに、著述活動も行っていました。どこに行っても暮らしてゆけるとはさすがです。もっとも、トビリシ時代は常に平和というわけではありませんでした。ロシアとトルコが戦争を始め、ベルタはその惨状を目の当たりにするという事態にも遭遇しています。しかし、気丈なベルタはさっそく負傷兵たちに自宅を解放、むしろ反戦主義の意思を強めるなど、のちの活動の基礎を固めてゆきました。

そして1885年になると、さすがにズットナー男爵夫妻もこの意思の強いベルタに降参。こうしてベルタとアルトゥールはウィーンに帰ってきました。そして1889年、ベルタはトビリシで見た戦争の光景をもとに「武器を捨てよ」という反戦小説を発表。さらに1891年にはオーストリア・平和の友の会」(1964年以降はズットナー協会という名に改名して現在も存続)を設立し、1892年〜1899年にはユダヤ人の平和運動家アルフレート・フリートといっしょに平和運動誌(題名はベルタの主著と同じ「武器を捨てよ」)も出版しました。

また、1893年にはノーベルに対して「平和に貢献した人を讃える賞を作ってはどうか?」と提案。これに賛同したノーベルは、「自分の死後、ノーベル平和賞を創設してほしい」ということばを遺書を残しました。つまり、ベルタはノーベル平和賞の生みの親の1人でもあったのです。なお、ノーベル平和賞の第1回授与式は1901年だったのですが、1905年にはベルタ自身もこれを受賞していますよ。

その後もベルタは1914年6月21日に亡くなる直前まで、平和活動にすごいエネルギーを発揮しました。とういうのも、ベルタは当時の科学の発達を見て、「20世紀の戦争が相手の国を占領するだけじゃ済まず、国土を徹底的に荒廃させてしまう」ということを予感していたからです。その一方で、ベルタは「個人でも歴史を左右することはできる」という強い信念ももっていました。しかもベルタは実力行使で過激に正義を押し付けるのではなく、時間がかかっても辛抱強く人々を説得し、納得させてゆきました。これはある意味でマリア・テレジアの発想にも通じるところがありますね。

ところで、ベルタの書いた「武器を捨てよ」ということばは、今の時代の一般の人々にもよい戒めになると思います。人が武器を手にとるのは、何かが怖いからでしょう。そしてその恐怖心はしばしば意味なく余計な武器まで溜め込むことにつながります。で、考えてみれば、今の時代に闇雲に子供を塾に通わせる親とか、使いもしないであろう資格をとるためダブルスクールに走る学生も、「負け組になりたくない」という漠然とした恐怖心で余計な武器を調達しようとしている点では、武装を固める国と根本的に同じじゃありませんか?また、人よりも高級な車がほしいとか世間並み以上の家に住みたいといって長いローンを組むのも、自分を豊かに見せかけるための武装といえる面があると思います。そしてこうした個人の「軍事支出」は家計に大きな重石となってのしかかります。

もし人が「勝ち負け」といった価値観からもっと自由になって不要な武器を捨て始めたら、必要のない出費や競争が減って、今よりはだいぶ住みやすい社会ができるかも知れません。しかし、その武器を捨てる過程では「他人に出し抜かれるのでは?」という恐怖心を克服する必要があります。こうして見ると、競争に勝つよりも競争を放棄するほうがよっぽど勇気のいることですね。しかし、個々の人々がその勇気をもつようになれば、世の中はきっと変わると思いますよ。ベルタが「個人にも歴史が変えられる」と信じたのも、そこに真意があったのではないかと思います。

◆参考文献:
ウィーン精神 第2巻 - 貴族の平和運動家たち/ベルタ・フォン・ズットナー;平和の使徒ツ
W.M.ジョンストン著、みすず書房
Oesterreichische Lexikon Band2 M-Z - Berta von Suttner
Richart u. Maria Bamberger, Ernst Bruckmueller, Karl Cutkas著、
Verlagsgesellschaft Oesterreich-Lexikon
Nobelpreize.org - Bertha von Suttner: Biography
http://nobelprize.org/peace/laureates/1905/suttner-bio.html

Wikipedia - アルフレッド・ノーベル
URLが長すぎるので省略 (Wikipediaのトップページは、 http://ja.wikipedia.org/)
Deutsches Historisches MUSEUM - Bertha von Suttner
http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/SuttnerBertha/



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