オーストリア散策エピソード > No.116
前に戻る


風紀向上運動で墜落した風紀
line


マリア・テレジアとフランツ・シュテファン
マリア・テレジアとフランツ・シュテファン

マリア・テレジアは、軍隊から体罰を一掃しようとしたり平民の子息にも士官への道を開放したりとなかなか善政を行っていたのですが、さすがにこの人でも感情に走って失敗することはありました。それは、国民の浮気防止です。これ、やればやるほどサイテーなことになって...。

マリア・テレジアはまず演劇やオペレッタで道徳上芳しいと思えない作品を上演禁止としました。さらに仮面舞踏会などの怪しげな催し物も厳禁とします。そして「純潔委員会」という組織を作り、風紀の取り締まりを強化。たとえばもし浮気をする人が出たら、相手の女性はムチ打ちの刑となりました。また、娼婦を見つけたときは髪の毛を刈り取って丸坊主としたうえ、道路掃除の刑にしました。さらに、独身の男性が娼婦のとこにいるのを見つかったときはその娼婦とムリヤリ結婚させました。でもまあ、このくらいならまだ穏便ともいえるでしょう。

しかし、もし娼婦が誰かに病気をうつしたときの刑罰はかなり過激でした。なにしろ頭を坊主にされたあと体中に松脂だのタールだの煤だのを塗りたくられ、さらに市中引き回しで晒し者にされながらウンコまでぶっかけられる(警吏がそれ用のひしゃくを見物人に配ってたとか)というお仕置きが続き、そのあとダメ押しにくムチ打ちを喰らされてから「おとといきやがれ!」と町の外に追放となっていましたから。

そういえば昔のウィーンでは「お針子が娼婦業に手を染めていた」なんていう記述がありますけど、少なくてもマリア・テレジアの時代はその反対で、「娼婦がお針子に化けていた」としたほうが正確なようです。つまり娼婦たちは当局の目が行き届かない地下に潜っってしまったのです。で、これは余計な病気の蔓延を昔よりひどくし、事態はかえってボロボロになってゆきました。特に被害がひどかったのは軍隊で、これは戦乱の時代を生きたマリア・テレジアにとって大きなダメージとなりました。

しかしこれ、刑罰の内容が女性に厳しい反面、男性にはどうも甘いといったところがありますね。潔癖症にしては片手落ちという気がします。なんだかいつものマリア・テレジアらしくありませんよ。いったいどうしたんでしょうね?

これは私の推察ですが、マリア・テレジアが男性に甘い風紀取締りをしたのは、夫のフランツ・シュテファンが極刑になるのを未然に防ごうとしたためじゃないんでしょうか?というのも、フランツ・シュテファンは名ばかりとはいえ一応皇帝の地位にあったわけですから、その寵愛を狙う女性が「ウフーン!」と近づいてくることもしばしばだったといいますし、本人自身も美しいものがすごく好きでしたから。しかもこの人はなかなかの美男子な上お人よしときてましたので、放っておいたらいつ陥落するかわかりませんでした。

もちろんマリア・テレジアはどんなに執務で忙しくてもフランツ・シュテファンの行動を監視して、当人と親密になりそうな女性が現われると、こっそりその人を夫から遠ざけてきました。ただ、アウアースペルク公爵爵夫人であるヴィルヘルミーネの美貌にフランツ・シュテファンが惹かれるのだけはどうしようもなく、「まあ、見て憧れてるだけなら大目に見ましょう」と妥協していましたが。

なお、マリア・テレジアは意に反して帝国内の風紀をむしろに地に落としてしまいましたが、夫の浮気防止にだけはほぼ成功を収めたようです。ただし、それは刑罰の脅しが功をなしたのではなく、マリア・テレジア本人が強くて夫が無闇に反逆できなかったからと見たほうがよさそうです。ここから考えるに、自分より強い男性とは結婚しないというのが最も効果的な浮気防止策という気がします。もちろん、あまり弱々しい男性を選んでは別な意味で苦労しそうですけどね。フランツ・シュテファンは優男とはいえ、政治じゃなく経済(事業の運営)には大した才能をもった人であり、その自信があったからこそ妻が自分より強いことを受け入れられたのでしょう。

ところで、マリア・テレジアの時代の厳しい風紀取締りの風潮は、その後の時代にも強い影を残していたようですよ。なんでも、女性が通りで男性と話しをしただけで逮捕されるということさえ起こっていましたから。そしてこうした時代背景は、ある伝説の誕生という意外な展開につながってゆきます。それは、のちのウィーン文学やオペレッタに現われた「自由闊達なウィーンの洗濯娘」というモチーフです。

実は若い女性と男性の会話が自由にできなかった時代、洗濯娘だけは洗い物を軍隊などの届けに行くとき、兵士と会話をすることが容認されていました。まあ、そうでないと商売になりませんけどね。で、そこに目をつけた作家たちがどんどんイメージを膨らませて作品に明るい洗濯娘を登場させ、これが元でいつしか人々は「洗濯娘なら本当に楽しい恋の場面がたくさんあった」と信じるようになりました。

しかし、実際の洗濯娘というのはかなりの低賃金で1日に16時間も働いていたといいますから、ごく一部の幸運な人を除けばのんびり恋などしてるヒマなどありませんでした。また、「明るく元気な洗濯娘」というイメージも、洗濯してるだけじゃ退屈だからおしゃべりをしたり歌ったりしていたという光景が拡大解釈されたものだったようです。おまけに、巷によくあった「洗濯娘の舞踏会」というのも、実は洗濯娘に扮した富裕系の人々のパーティーだったのだとか。でも、もしその時代に洗濯娘たちが若い男性との会話を禁じられていたなら、オーストリアの文学とオペレッタはひとつの伝説を失って、今より色褪せていたかも知れませんね。

◆参考文献:
マリア・テレジアとその時代 - 第3部 第2章 フランツ
江村洋著、 東京書籍
ハプスブルク一千年 -第11章 マリア・テレジアとその時代
中丸明著、 新潮社
ハプスブルク家 - 第4章 3-3 風紀
江村洋著、 講談社現代新書

ハプスブルク家の女たち − 女帝の家族/夫フランツ・シュテファンへの愛
江村洋著、 講談社現代新書
ハプスブルク夜話 − アルンシュタイン伯爵と洗濯娘
hゲオルク・マルクス著、江村洋訳、 河出書房新社



line

前に戻る