オーストリア散策エピソード > No.111
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ドロテーアおばさんの貧困退治
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ウィーンのドロテウム
ウィーンのドロテウムの入り口

ウィーンの「ドロテウム」というと高級オークションで有名ですね。しかし、当初設立した人の意図は全然別なものでした。今日はその歴史をお話ししましょう。

1683年のオスマントルコによる第二次ウィーン包囲を破ったオーストリアは、めでたさもそれなりにあったものの、戦争後のご多分に漏れず人々暮らしぶりはひどいものでした。そして経済的に困窮する人が増えれば、高利貸しが跋扈するのも自然の成り行き。一説によると当時のウィーンでは時として年率163%にも及ぶ悪どい高金利が横行し、現代のサラ金地獄みたいな状態に陥る人が続出していたそうです。

そこで1707年、時の皇帝ヨーゼフ1世はウィーンのアンナ通りに公営の質屋を創設しました。高利貸しから民衆を守ろうというわけです。また、この公営質屋の収益金は救貧院の創設にも使われ、1733年にはそこに5,000人もの貧しい人々が収容されていたそうですよ。なかなかいい考えでしたね。

とはいえ、この救貧院の運営資金というのは、実のところ貧民相手の質屋商売から生み出されたものではないようです。なにしろ、その日暮らしの生活を余儀なくされている人の質草といえば、大して価値のないボロ衣服とシーツぐらいしかなかったのですから。つまり当初の公営質屋のお得意様というのは、ヨーゼフ1世の意図に反して、むしろ貴族連中のほうだったようです。

さらに難儀なことに、1773年1月にはペストの流行で衣類とシーツの質入が3年も受け付け禁止となってしまいました。こうなると貧しい人々は質入するものが皆無となり、公営質屋の救貧機能は完全にマヒですね。また、店の従業員も元々貧民を助けるなんていう気なんてサラサラなく、ガラクタを持ってくる客がいれば剣もほろろに追い返す始末さえあるというのが実情でした。

が、ここでそうした流れに大きな転機をもたらす伝説の一事件が起こります。それは、1786年3月8日のことでした。安そうな山高帽をもった男が店を訪れ、「これを質に入れたい」というと、応対に出た会計主任は「そいつかぶって出ていきな!」と邪険に指図。すると男はムッとして、「えーい、控えおろう!朕は神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世なるぞ!そちの悪行、しかと見届けた!」と水戸黄門みたいに雷を落とし、この会計主任をあっさりクビにしちゃいました。

これ、本当にあったことなのかどうかはわかりません。民衆王という異名をもつヨーゼフ2世には黄門様や遠山の金さんみたいな逸話がたくさんありますけど、フランス革命の前後で忙しかったあの時期に、町でのんびりお忍びの世直しなんかしてるヒマはなかったはずなので。

とはいえ、このインチキっぽい伝説を境にかの公営質屋の業務が改革されて、そこから繁盛していったのは事実です。このあと質草の最低額が引き下げられて貧しい人がもっと出入りできるようになると、店は繁盛して手狭となり、アンナ通りの建物からドロテーア通り17番地の修道院に移転してゆきました。そしてその通りの名にちなんで、この公営質屋は「ドロテウム」と呼ばれるようになりました。で、さらに時代を経て1901年11月12日には、皇帝フランツ・ヨーゼフがドロテウムの入っていた古い建物を取り壊して新しい建物を建設。これが現在ウィーンで営業しているデラックスなドロテウムに至っています。

そうそう、ドロテウムのオークションはすでに19世紀の段階でかなりのレベルに達していたというのですが、第一次世界大戦後の帝政崩壊で旧貴族たちがお宝をたくさん放出したことも、これに拍車をかけた一因でしょうね。古い名門貴族の多い国でなければ、ここまでオークションが発展することはなかったと思います。

また、ドロテウムが創設者の意図を見事に反映してその本領を発揮したのは、なんといってもその巨大な倉庫が市民の古着で山積みになった第二次世界大戦の直後でしょう。その山が高かったということは、それだけ多くの人々が貧困から助かったということです。皇帝ヨーゼフ1世の思慮が200年以上ものちの世の民衆に救いをもたらしたというのは、考えてみると壮大なお話しです。

そして戦後の経済成長を経て、ドロテウムの倉庫にあった市民の質草の山の跡はもはや残っていません。まさにドロテウムはオーストリアの貧困退治の記念碑といったところですね。ドロテウムには「ドロテーアおばさん」という愛称があるそうですけど、そいういう親しみを込めた呼び名ができるのも当然でしょう。

ついでながら、ドロテウムに関するトホホなお話しもひとつ。ナチス時代のドロテウムでは、退廃芸術追放ということで美術品のオークションがボロボロになった時期もあるのですが、当時はヒトラー総統の著書である「我が闘争」も質入禁止だったのだとか。なんでも、もしロクな落札価格がつかなければ、ヒトラーの面目が丸潰れになる恐れがあったからという説がありますけど。でもこれって、ナチスにしては弱気すぎで、ちょっと微笑ましいですね。

おしまいに、私はこのドロテウムの歴史について、2つ評価したいことがあります。1つは、民衆に自助努力を促す態度が一貫していたことです。皇帝たちは質屋を作り、その敷居を低くはしてきましたが、無条件のお恵みはしていません。ちゃんと質草を出し、適正な金利を払うということを民衆に守らせています。2つめは、身分や貧富による差別も逆差別もしていないという点です。大貴族から乞食同然の貧民までが同じ質屋に通うというのは、ヘタな民主国家よりもよっぽど「人の尊厳」に対して公正な発想だと思います。貧富の差が歴然としてあるのはある意味でいつの世も仕方ないところはありますが、貧困を侮辱しない世の中を作る努力ぐらいは、現代の人々もすべきでしょうね。

P.S.今のドロテウムは一大オークションセンターとして有名ですが、本来の質屋機能だって今でもちゃんと残っています。1階の片隅にそのコーナーがあるそうですよ。それから、ドロテウムのオークションでモノの落札したときは、店側に手数料として落札価格の1割程度を支払うほか、国にも付加価値税を払わなくてはならないことにご注意下さいね。

◆参考資料:

Willkommen in Dorotheum
http://www.dorotheum.com/
ハプスブルク夜話 - 皇帝ヨーゼフ2世、帽子を質入する
ゲオルク・マルクス著、江村洋訳、河出書房
ウィーン便り - カジノとドロテウム
諏訪功著、三修社


◆画像元:
Willkommen im Dorothuem
http://www.dorotheum.com/deu/index.html



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