オーストリア散策エピソード > No.107
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マリア・テレジアの国政大改革
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マリア・テレジア
マリア・テレジア


ハプスブルク家で国の改革に最も熱心だった人といえば、たぶんヨーゼフ2世でしょう。日本の「水戸黄門」みたいに、お忍びで世直しをするヨーゼフ2世の伝説がいくつも残っていますから。しかし水戸黄門の世直しが作り話しであるのと同様に、ヨーゼフ2世の世直しも本人を偲ぶ人たちによってできたファンタジーでした。せめて理想に燃えた君主の気持ちだけでも汲んであげようというところだったんでしょうか?

オーストリアを含む旧ハプスブルク帝国のご領地は、よきにつけ悪きにつけ大変保守的な土地柄で、基本的に改革なんかするのは日本よりずっと至難の業とさえいえそうなほどでした。しかし、そうしたトホホな土壌をモノともせずに必殺の改革をやってのけた人もいますよ。その名はマリア・テレジア。ヨーゼフ2世のお母さんであり、ハプスブルク家で唯一の女性君主だった人です。

マリア・テレジアが父カール6世から家督を受け継いだのは23歳のときでした。そしてこのときプロイセン国王のフリードヒ2世が女性君主承認の約束を反故にしてハプスブルク家のご領地のひとつだったシュレジエンに兵を送り、その地を占領。これで頭にきたマリア・テレジアは、フリードリヒ2世にガツーンと一発肘鉄を打ってやろうと思ったのですが、当時の兵力と財政では全然無理でした。そこで彼女は「国を改革してからやっつけてあげましょ!」と決意します。

しかし、ウィーンの宮廷の面々には、23歳のお姉さん君主のいうことなんかマトモに聞く雰囲気はありませんでした。もちろんマリア・テレジアもそのことはよく承知で、性急な行動はとりません。それどころか、即位したばかりの頃「私は政治の経験がありませんから、どうぞいろいろ教えて下さいね」としおらしく言い、古い家臣たちを安心させるほどでした。

そうした中、父帝の時代から仕えていた重臣の中で例外的に市民出身だったバルテンシュタインだけは、どこか浮かない顔をしていました。なにしろ、マリア・テレジアの夫の候補としてカール6世に「プロイセンのフリードリヒ2世どうでしょう?」と助言した前科があるので。おかげでマリア・テレジアは大好きなロートリンゲン公フランツ・シュテファンとの結婚(1737年)をし損なうところでした。しかしマリア・テレジアはバルテンシュタインが優秀な人材であることをよく知っていました。それでバルテンシュタインには、「今こそ国家のために働いてもらわないといけません」とにこやかに答えておきました。これでバルテンシュタインが張り切ったのはいうまでもありません。

この一場面ですでにご察しはつくと思いますが、マリア・テレジアの改革のポイントは、人材の活用にありました。その後もこの女帝(※注1)は従来の身分にはあまりこだわらず、若く優秀な人材をどんどん発掘しては国の要職に就けてゆきました。その中にはボヘミアの名門貴族出身のカウニッツ伯爵(フランスとの同盟の立役者)もいれば、シュレジエンから逃げてきたハウクヴィッツ伯爵(財政改革に活躍)とか、それほど名門貴族出身でもないダウン伯爵(のちの将軍)、グラーツで一介の弁護士をしていたラープ(経済顧問に就任)のような人物もいました。

注1: 女帝に就いたのは28歳のとき(1745年)から。また、原語のKaiserinは一般に「皇后」と訳されますが、彼女の場合は実質的に女性の皇帝も同然でしたから、ここでは「女帝」と表現しました。

一方、改革に対して消極的だった(というより抵抗勢力でさえあった)古参の重臣たちはどうなったかというと、実は全然クビになりませんでした。マリア・テレジアはひたすらその人たちの寿命がくるのを待っていたのです。これなら波風も立ちませんね。

マリア・テレジアの改革の中で最も困難だったのは税制だったと思います。かつて無税だった貴族と聖職者にも課税しようと考えたのですから、そりゃ抵抗も激しかったでしょう。しかし、彼女はあの手この手で問題を片付けてゆきました。

税制改革のプランをまとめたのは新参のハウクヴィッツ伯爵です。そしてこれに最も反対したのは、古くからの重臣の1人であるハラッハ侯爵でした。しかし、他の古参の重臣たちは心の中では反対を唱えつつも、それが女帝の意に即さないことは知っていたので、保身のために何も言わず。これはマリア・テレジアにとってどこか有利な展開でした。

こうして出来た税制案は各地の議会にかけられたのですが、その順番はメーレン(今のスロヴァキア)、ボヘミア(今のチェコ)、オーバーエスタライヒ(今のオーストリアでチェコに隣接するところ)の議会となっていました。これはちょっと興味深いですよ。というのも、なんだか法案の通りやすそうなところから先に攻めていますから。

メーレンとボヘミアはドイツ系の貴族が幅を効かせ、多数派であるスラブ系の住民は肩身の狭い思いをしていたところです。つまり、貴族や聖職者に課税すると喜ぶ人の多いところでした。また、両地域のすぐ隣りにはプロイセンに占領されたシュレジアンがあるのですが、その地で貴族たちが課された税金はすごく高率でした。したがってメーレンやボヘミアの貴族や聖職者には、「プロイセンに占領されてメチャクチャ高い税金を払うよりは、マリア・テレジアにほどほどの税金を払うほうがまだ負担は軽いか?」という考えも働いたと思います。さらに、こうして最初の2つの議会で法案が通過すると、元々は反対機運のあったオーバーエスタライヒの議会も、そう無闇に新税制の拒否は決議できません。まあ、これらは私の憶測にすぎないのですが、決して大きくはずれてはいないと思いますよ。

その後この法案は、ハラッハ侯爵のいるニーダーエスタライヒ(今のオーストリアの北東部)の議会で、マリア・テレジアの予想通り大きな抵抗に遭います。で、ここでついにマリア・テレジアは必殺の手に打って出ました。それは、ハラッハの罷免です。今までどんなに反対意見を述べても重臣として扱い続けた家臣を切るわけですから、「今回は本気」ということが人々にはさぞよく伝わったでしょうね。

あと、プロイセンからずっと離れたところにあるケルンテンとシュタイアーマルクの議会は、最初からメーレンやボヘミアほど簡単に新税制案を承認することが期待できませんでした。しかしマリア・テレジアはこれを時間の問題と判断、じっくり時間をかけて相手が折れてくるのを待ちました。

その反面、ハンガリーだけは貴族と聖職者の課税を免れました。で、これにはちょっとしたワケが。以前プロイセンの攻勢でハプスブルク家が苦境に陥ったとき、ハンガリーの貴族たちはマリア・テレジアを助けてくれたので、彼女はその借りを返したのです。今の民主主義の価値観ならこういう判断は不公平と決め付けられるでしょうね。しかし、マリア・テレジアの時代はもっと多様な価値観がありましたし、特に相手が小アジア的な伝統をもつ騎馬民族のマジャール人のときは、「正義」よりも「信頼」のほうが重要だったはず。恩のある人々に鷹揚な態度で応えたマリア・テレジアの選択は間違ってなかったと思います。

ついでにもうひとつ。カトリック教会もマリア・テレジアの改革に反対する大きな抵抗勢力で、かなり強烈かつ下品なブーイングキャンペーンをしていたそうです。が、マリア・テレジアはカトリック教会に品位ある敬意を示しつつも、坊さんたちの要求は受け入れず。そこで教会は弁の立つ代表をマリア・テレジアのところに送り込みました。しかし、その代表はマリア・テレジアの優しくにこやかな説明にことばが返せずすごすごと退散、教会から「この役立たずめ!」と叱られてました。

こういった感じでマリア・テレジアの税制改革は成功。さらに、司法や軍隊の改革にも大きな成果を収めました。特に軍隊では、上官が兵士を殴るのを禁止したほか、貴族だけでなく市民の子弟も入学できる士官学校「テレジアーウム」を開校し、成績がよければマリア・テレジアと夕食に同席できるというご褒美も用意。さらには農民の子も入学OKの陸軍学校もオープンし、家柄が徹底的にスカなところからも人材を発掘して、その才能を伸ばそうとしたそうですよ。

ここで今日のお話しをまとめましょう。マリア・テレジアの改革はよく見ると、よい人材を引き出すことに重点がある一方、ダメな人材をリストラするとか追い落とすというところはありません。これは現代社会でいう「能力主義」との大きな違いです。また、マリア・テレジアには正義を振りかざすところも事を急ぐところもなく、むしろふだんは見かけ上少し生ぬるいと思えるほどの行動をとって、それが誰も気付かないうちにだんだん熱くなるという戦法をとっています。これも今の時代に好まれる派手な花火の改革とは大違いですね。また、マリア・テレジアはここぞというときに限定でドカーンと雷を落としていますが、ふだんはどんなに反対を受けてもさらりとかわしています。こうして見ると、本当の改革というのは、実はとても地味な作業から成り立つものなのかも知れませんね。

◆参考資料:
マリア・テレジアとその時代
江村洋著、東京書籍



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