オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.098
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皇帝暗殺未遂事件の本当の記念碑
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ウィーン大学の近くに、フォーティーフ教会(Votifkirche)という大きな建物があります。これ、日本語に訳すと「奉納教会」という意味です。で、その名のとおりこの教会は、皇帝フランツ・ヨーゼフが暗殺されそうになって危うく助かったことを感謝して、神様に奉納されたものなんですよ。

フランツ・ヨーゼフは欧州各地に革命の流行した1848年に、メッテルニヒ亡命のドサクサの中、弱冠18歳で皇帝に即位しました。が、その治世は初っ端からご難で、翌1849年にはハンガリーでコシュートたちがオーストリア帝国からの独立を求めて蜂起。で、これをオーストリアの皇帝軍が鎮圧したものだから、フランツ・ヨーゼフはマジャール人たちからかなり目の仇にされるハメとなりました。

そして1853年12月18日、ケルントナー門の保塁を散歩中だったフランツ・ヨーゼフは、「コシュート万歳!」と叫んで突進してきたハンガリー青年のヤノシュ・リベーニのナイフによってまあまあの怪我を負いました。が、同行中だったアイルランド人のオドンネル武官と近くを通りかかったヨーゼフ・エッテンライヒというおじさんがその青年を取り押さえ、暗殺は未遂に終わります。そしてこれを神のご加護と見た弟のマクシミリアン大公(のちのメキシコ皇帝)は、フランツ・ヨーゼフに教会の建立を提案。で、コンテストの結果25歳の若き建築家であるハインリヒ・フェルステルの設計で建てられたのが、今のフォーティーフ教会というわけです。

ちなみに、この暗殺未遂できっかけに皇帝は保塁の取り壊しとリング大通りの建設を決意したと言われますが、これは言いすぎでしょう。そのずっと前のナポレオン戦争の頃からウィーンの都市近代化計画は何度も検討されていたといいますから。

ところで、この皇帝暗殺未遂の場面はその後いろいろな語り草となり、絵画にもなりました。が、その絵を見ていると、個人的にはなんだかちょっと違和感が...。まずは下の絵をご覧下さい。

皇帝フランツ・ヨーゼフ暗殺未遂事件の絵

フランツ・ヨーゼフに刃を向けたリべーニのは21歳の仕立て屋でした。で、その現場に出くわして咄嗟にリベーニを投げ飛ばしたエッテンライヒは、53歳の肉屋さんです。若いモンにはまだ負けないぞという感じですね。また、この絵で皇帝は澄ました顔をしながら後ろを振り向いていますが、それは暗殺者の気配を敏感に感じ取ったからではなく、通りすがりの女の人が驚いて「人殺し!」と叫んだためでした。かなり呑気ですね。それに、欧州切っての名家出身である皇帝の周りにいたのが仕立て屋と肉屋と名も知れぬ女の人というのは、なんかすごく奇妙な取り合わせです。オーストリア以外ではまずあり得ないことでしょう。あと、この絵の外には取り押さえられたリベーニをボコボコの袋叩きにする群集もいました。全体として、歴史に残る事件のわりには配役がどうも貧相でトホホです。

さらにトホホなのは、リベーニの持っていた刃物がかなりの安物で、おまけにだいぶ汚れてくたびれてたことです。女性の声に振り向いて少しは危険を避ける暇もあったことから、皇帝の傷自体は2cmか3cmでそれほど深くはありませんでした。しかし、あまり汚いナイフで刺されては、あとになってからばい菌でやられる恐れがあります。なんだかビンボー臭いですね。事件のあとにすごく立派な教会を建てたのには、このビンボー臭さへの反動もあったのでしょうか?

ついでながら、この暗殺未遂事件に居合わせた人たちは、フランツ・ヨーゼフが皇帝だとは気付かなかったそうです。事件の5日後、皇帝から感謝を込めて貴族の称号をもらいヨーゼフ・リッター・フォン・エッテライヒと名乗ることになった肉屋さんは、相当驚いたことでしょうね。さらに彼は家紋にハプスブルク家の紋章をつけ加えることまで許可されたそうです。また、今のウィーンの第11区にはこのおじさんにちなんだ「エッテンライヒ通り(Ettenreichgasse)」という小道も残っていますよ。大通りじゃなく、ささやかな小道というところがいいですね。

それから、オドンネル武官も皇帝から好きなご褒美がもらえることになったのですが、この人はあまり欲のない人でした。彼が申し出たのは、ザルツブルクのミラベル宮殿にある庭園の一角に、小さな別荘を作らせてほしいということです。しかもその別荘は、庭園全体の雰囲気を壊さないようにと慎ましく建てられました。これ、現地ではカスト・ヴィラ(Kast-Villa)という名で親しまれ、今はマイヤー=メルンホーフ男爵の所有になっているそうです。

また、当初不人気だったフランツ・ヨーゼフはこの事件で人々の同情を集めたことがきっかけとなり、あとから人気のほうも上がってきたそうです。災い転じて福となり、よかったですね。

ところで、フォーティーフ教会の荘厳さはこのビンボー臭い暗殺未遂事件の記念碑にしては大袈裟という気がします。むしろ観光ガイドには全然載っていないウィーンの「エッテンライヒ通り」とザルツブルクの「小さな別荘」のほうが、この出来事の身の丈にはピッタリの記念碑かと思います。それに、何事につけ実態は全然偉大じゃなくてショボいところが、オーストリアの歴史の愛すべき点ですね。

【追記】 肉屋から貴族になったエッテンライヒの家は今も残っています。場所はウィーン10区のノイデッガー通り20番地(Neudeggergasse 20)です。

◆参考文献

1. Virtual Vienna Net - The Kaiser, the Tailor and the Church of Deliverance:
http://www.virtualvienna.net/columns/duncan/votivekirche.html
2. SALZBURG.AT - Kaiserbelonung:
http://www.salzburg.at/themen/leben/politik.html?NewsID=30054
3. OESTERREICHISCHES BIOGRAPHISCHES LEXIKON:
http://hw.oeaw.ac.at/oebl/oebl_E/Ettenreich_Christian-Josef_1800_1875.xml
4. Geschichte der Neudergasse:
http://www.neudeggergasse.at/geschichte.htm
5.ハプスブルク夜話 - 皇帝暗殺計画:
Georg Markus著、江村洋訳、河出書房
6. ウィーン - フランツヨーゼフの時代:
上田浩二著、ちくま新書


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