オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.087
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偽札よりもひどい紙幣
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1924年のオーストリア紙幣
1924年のオーストリア紙幣
肖像の絵は偉人じゃくて、なぜか単にきれいなお姉さん。また、お札の左側には「偽造しちゃいやーん!」と書いてあります。

オーストリアで紙幣が最初に発行されたのは、マリア・テレジアの治世である1762年のことでした。プロイセンのフリードリヒ2世に突如分捕られたたシュレジエン地方を奪回すべく、低コストで戦費の調達をしなければならなかったので。金貨や銀貨じゃ作る費用が高いですから。

とはいえ、当初のオーストリア紙幣はのどかに手描きで発行されていました。1枚1枚丹精込めた手作りでプロイセンとの7年戦争の資金を準備するとは、ずいぶん気の遠くなりそうなお話しですね。で、のちに印刷機が使われるようになると、紙幣の製造コストは一気に低下してゆきました。

さて、製造コストが安くなれば、偽札作りもなかなか利益率の高い稼業になってきますね。オーストリアでもごく当然のように偽札を作る人や組織が現われてきました。これに対して当初政府は「偽札を作ったら死刑!」と言って脅していたのですが、本当にそこまで厳しくしたらたくさん死刑になる人が出てしまうので、「しっかり道具を揃えて気合の入った偽札作りをしたら死刑よ!」とあとで少し態度を甘くしています。

でも、中にはそうした根性の偽札作りがバレても死刑を免れた人さえいます。それはペーター・フォン・ボール男爵。かなり完璧な10グルデンと100グルデンの高額紙幣をたくさん作っていました。なんでそこまで素晴らしい作品ができたかというと、この人の本職は毎日紙幣を見る銀行家だったからす。で、なんでバレたかというと、フォン・ボール男爵の銀行はとっくに破産していて、羽振りのよさがあまりにも不自然だったからです。アホですね。

1846年3月22日に捕まったとき、この男爵はもう73歳になっていたそうです。で、年寄りを極刑にするのは可哀想だということで、いったん宣告された死刑は取り消され、禁固刑になりました。

その後も偽札作りに精を出す人は全然絶えなかったので、政府は1806年にイヤイヤながら紙幣偽造の名人だったボーモンの奥さんを顧問に迎え入れたそうです。おかげで偽造の難しいお札はできたのですが、偽札製造団もそれなりに腕を上げていきますから、結局はいたちごっこが続きました。

そこでオーストリア国立銀行の簿記局部長だったフランツ・フォン・ザルツマンはついにキレてしまい、必殺の偽造防止策に打って出ました。国家の威信が傷つくかどうかギリギリのところまで上半身が裸の女の子の絵がついている、エッチなお札を作ることにしたのです。これなら国民がお札をしげしげと見るようになるから偽札に気がつきやすくなり、偽造団は仕事がやりにくくなるだろうという算段です。成功したのかどうかは知りませんが、そういうお札がたくさん印刷されたことは事実です。

さて、偽札製造団なら摘発して逮捕すればいいのですが、世の中にはもっと困った連中がいました。それは、欧州中に革命の嵐が起こった1848年のことでした。ハプスブルク家の傘下にあったハンガリーの議会はこの年の7月11日、オーストリア通貨じゃなく自国独自の通貨を作ろうと決議。しかしウィーンの宮廷はウンと言いません。そこでハンガリー側は、予め銀行に準備しておいた多少の銀貨を裏付けとする紙幣を強引に印刷し始めました。しかも、最初は慎ましく1グルデンと2グルデンの少額紙幣だけを印刷していたのですが、そのうちに気が大きくなって100グルデン札まで発行していたそうです。

この紙幣はハガリーの革命戦士の名をとって「コシュート紙幣」などと呼ばれました。そしてコシュートは自軍とともに印刷機を持ち歩いてあちこちでこの紙幣を印刷したものですから、最後にはオーストリア軍ですらその紙幣を受け取らざるを得ないハメに陥りました。

ハンガリー革命が失敗したあと、この「コシュート紙幣」の山はオーストリア軍によって焼却処分にされました。かなり高い山だったそうですよ。しかし、ここまで堂々と流通したことがあれば、「コシュート紙幣」はもはやインチキ札の領域を超えてますね。

この時代にはオーストリアの宮廷に反抗するつもりのない人々も、勝手に紙幣や貨幣を作っていました。たとえばウィーンでは、その町の中だけで通用する「ウィーン通貨」というのができていたそうです。で、その通貨は本物のお金の半分の価値で流通していました。これを労働者に払うことで、雇い主は事実上人件費を半減できたといいますが、ほとんど詐欺ですね。おかげで本物のお金をほとんど見たことのない労働者なんかザラだったのだとか。さらにボヘミアとかハプスブルク帝国の僻地のガリツィアでは個人で布や木の通貨を作る人までいて、しかもそれがごく限定されたエリアながら実際にお金として通用していたという話しもあります。ここまでくると国立銀行の権威は大失墜です。トホホ。

なお、当時のオーストリアでは本物の通貨も流通していました。当然のことですけど。ただし、その流通の仕方は、ちょっと奇抜でした。銀貨はもったいなからと言って誰も使わなかったので、市場に出回るのは紙幣ばかり。で、困るのはおつりのときです。そこで人々は紙幣を半分とか4分の1に切っておつりにしました。こうして切り刻まれた紙幣を見て、国立銀行が頭にきたのはいうまでもありません。当局の人間から見たら、こっそり偽札作りをしている人のほうが国家の威信に敬意を払っている分だけまだマシだったとさえ言えそうですね。でも、これだけ個人が自由に通貨を作ったり切り刻んだりできる時代って、考えてみたらとても楽しそうではありませんか?

●参考文献
1. ハプスブルク夜話 - 偽札造りは、首をはねられる
ゲオルク・マルクス著、江村洋訳、河出書房
2. 1848年の社会史 - 貨幣の表情
良知力著、影書房
3. Die Symbole Oesterreichs
Peter Diem著、Verlag Kramayr & Scheriau


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