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不思議の国リヒテンシュタイン・中編
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リヒテンシュタイン侯・ヨハネス2世
善良公・ヨハネス2世

今日はリヒテンシュタイン侯国がなぜ何百年もしぶとく存在し続けられたのかをお話ししましょう。

侯国となったリヒテンシュタインには、ナポレオン戦争、普墺戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦と、4つの危機がありました。しかし、時の侯爵殿下はこれを恵まれた運と才能でうまく乗り切っています。

まずナポレオン戦争。1796年にフランス軍はオーストリア西部のブレゲンツに入り、そこからフェルトキルヒを通って南下してきました。兵力が数十人しかないリヒテンシュタインはロクに戦う余地もなく、あっさり占領されてしまいます。しかし、戦う余地があって兵士が全滅するよりは、このほうがまだマシかも知れませんね。戦火に曝されたら、農民までとばっちりを受けますから。

その後ナポレオンはウィーンも占領。参ったオーストリアは1797年10月18日にフランスといったん休戦しました。しかし、フランス軍は休戦のあともイタリア侵攻だのスイス占領を続け、さらに勢力を拡大。そこで1798年12月に第2次対仏大同盟ができ、翌1799年3月20日にオーストリアは再度フランスに宣戦布告をします。もちろん、主君がハプスブルク家に仕えるリヒテンシュタインはまた巻き添えです。フランス軍はリヒテンシュタインのベンデルンに侵入、そこを足場にしてオーストリアのフェルトキルヒ攻略を狙いました。そして大戦闘の末に目的を果たせなかったフランス軍は、頭に来て3週間ほどそのあたりで略奪の限りを尽くした挙句スイスに退散してゆきました。当時人口5,000人にすぎなかったリヒテンシュタインは、こうしたフランス軍の略奪やオーストリア軍の徴発(実体は略奪同然)によって、100万グルデンもの負債を負わされたといいます。まさに大迷惑でした。

さて、オーストリア側は2度のボロ負けにも懲りず、1805年8月に3度目の対仏大同盟に参加します。一方、ナポレオンは同年11月にウィーンをまたもや占領する傍ら、フランスに近い西南ドイツにライン連邦という第3勢力の国を一方的に作って、そこの保護者に就きます。このライン連邦には、リヒテンシュタインも強制的に組み入れられました。ハプスブルク家の忠実な家臣でありながら、フランスの息のかかったライン連邦軍に40人の兵士を差し出せと命じられた当時のリヒテンシュタイン侯爵ヨハネス1世は、実に困ったことになりました。そこで彼は1つの妥協策に打って出ます。それは、近くのナッサウ公国に毎年5,000グルデンを払って兵役を肩代わりしてもらうということです。これならハプスブルク家に直接刃を向けることにはなりません。

余談ですが、ライン連邦軍に送られたナッサウ公国の兵士たちは、1808年−1809年にスペイン戦線で全滅しました。ここぞというときに大金を惜しみなく使ったヨハネス1世の判断は、奇しくもリヒテンシュタインの領民の命を救っていたのです。

このあとも第4次、第5次の対仏大同盟がしつこくでき、あれやこれやと戦争をしているうちにナポレオンは敗北。ひたすら耐え続けたリヒテンシュタインも、やっと踏んだり蹴ったりから解放されました。そしてこの歴史の混乱はリヒテンシュタインにちょっとした幸運ももたらしました。それは、理由はどうあれ例のライン連邦で認められた名目的な主権が、戦後なし崩し的ながら実質的主権に変わっていったことです。つまり、今までほどハプスブルク家に気兼ねせず自分で自分の国のことを決める余地ができてきたのです。

では、お次の災難に入りましょう。1867年にプロイセン帝国とオーストリア帝国がドイツの覇権を巡って対立、普墺戦争が勃発します。そしてリヒテンシュタインはオーストリアから80人の兵士を供出するように命じられました。そこでリヒテンシュタイン侯爵ヨハネス2世は戦況を冷静に観察。オーストリア軍がボヘミア戦線で苦戦する一方で、イタリアでは連勝しているところを見て、自国の兵士たちを南進させました。1867年7月2日のことです。ナポレオン戦争のあとで主権の度合いを高めたからとれた行動ともいえますね。また、このときヨハネス2世は表向きじゃ「ドイツ民族同士で血を流したくない」とか「チロル防衛でドイツ民族に貢献」などと言ってますが、これはウソでしょう。翌7月3日、ボヘミアのケーニヒスグレーツの近辺でオーストリアの主力軍は壊滅していますから。一方、イタリア戦線に出かけた80人のリヒテンシュタイン兵は、結局敵の姿さえ見ることなく6週間で帰国。またもや全員無事でした。

ちなみに、このときリヒテンシュタインの戦費は、すべてヨハネス2世のポケットマネーから出ていたそうです。で、考えてみれば大砲や鉄砲の弾はそんなに安いワケじゃありませんから、戦闘をすれば余計な出費が増えます。他人の税金で戦争をする人はそんなコスト意識なんて希薄でしょうしょうけど、自腹となれば話は違います。出費を最小限に抑えるため、なるべく戦闘は避けるのが当然でしょう。その意味で、ケチケチせずに自分のポケットマネーをポンと出したヨハネス2世は、むしろ節約家だといえます。お金の使い方を熟知した人ですね。

普墺戦争は結局オーストリアの負けで終わりました。そしてオーストリア側は軍備の縮小を求められます。そこでリヒテンシュタインのヨハネス2世は、「それじゃあ、我が国は80人の兵士を減らします」と応えました。これまでの総兵力80人から80人を引いたらゼロです。しかし、できるだけ自国の軍備を減らしたくないオーストリアは渡りに船でこの申し出を了解。こうして、山奥のどーでもいいような場所に非武装国家が誕生しました。そうそう、リヒテンシュタインのお土産には、銃刀を持って不動の姿勢で立つ老兵士の絵葉書があります。この人は1939年4月19日に95歳で亡くなったアンドレアス・キーバーさんといって、リヒテンシュタインの最後の兵士だったそうです。しかも、この人が戦地に向かったのは1867年といいますから、あの敵1人見かけないイタリア戦線に赴いていたことになります。いったい「最後に武器を使った兵士」は、何百年前にいたんでしょうね?

ついでながら、軍隊を解散した1868年にヨハネス2世はライン川の堤防工事を実施、退役兵士が失業しないようにとの配慮もしました。さらに、戦争の影響だのなんだので困っているだろうと、国民に17万5千グルデンの無利息貸し付けも行っています。おかげでヨハネス2世は「善良侯」と渾名され、今ではこの侯爵の石像が国内に3つも建っているそうです。

さて、お話しが長くなってきたので、今日はこのへんまでにしておきましょう。それと、本日のお話しでリヒテンシュタインが歩み始めた「非武装国家」という選択は、一見とても理想的な国の姿だと思われがちですが、実は強い軍隊をもつ国よりもずっと舵取りが難しいという一面をもっています。残念ながら、日本がこれを真似することは不可能でしょう。では、リヒテンシュタインの賢公たちはどうやってその舵をとりこなしてきたのでしょうか?そのお話しは、来週といたします。


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