オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.083
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不思議の国リヒテンシュタイン・前編
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リヒテンシュタイン城
リヒテンシュタイン城
(ウィーン南部)

オーストリアとスイスに挟まれたところに、リヒテンシュタインという小さな国があります。面積は瀬戸内の小豆島くらい。こんな国が独立して存在するのは、なんだか不自然じゃありませんか?そこでちょっと調べてみたところ、リヒテンシュタイン侯国の成り立ちには、面白いエピソードがあるとわかりました。

まず、城主のリヒテンシュタイン家ですが、実はオーストリアの貴族でした。しかも、今でもリヒテンシュタインの面積の何倍にもなる土地をオーストリアにもってますよ。

この一族の家名は、12世紀にハインリヒ・フォン・シュヴァルツェンベルクという人がウィーンの南に建てた「リヒテンシュタイン」という砦の名前に由来しています。リヒトは光とか明るいものという意味。シュタインは辞書を引くと石と書いてありますが、石の塊の山とか城を意味することもあります。つまり、同家の語源は「明るい城塞」ということになります。

その後、ドナウヴェルトという地方の名門貴族出身であるフーゴーが城主の娘ハデリヒと結婚し、初のリヒテンシュタインを名乗る人物となりました。そしてリヒテンシュタイン家の面々はバーベンベルク家の家臣として熱心に働き、広大な土地を得ていったといいます。

リヒテンシュタイン家には、有名な騎士詩人になった人もいます。その人の名はウルリヒ。オーストリアの教育用のサイトにこの人の恋愛歌(ドイツ文学史ではミンネザンクといいます)があったので借りてきました。下記のURLで最初の4行が聞けます。とても明るいメロディーですよ。

in den walde sueze doene (13世紀、Ulrich v. Liechtenstein作)

ウルリヒがこうした愛らしい詩を作っている頃、今のリヒテンシュタインのファドゥーツのあたりは、モントフォールト家のフーゴーという強欲な伯爵に支配されていました。その伯爵の居城はスイスに国境を接するオーストリア西端の町フェルトキルヒのシャッテンブルク城でした。シャッテンは「陰」、ブルクは「城塞」という意味ですから、これは「陰の城塞」ですね。暴君には分相応の名でしょう。リヒテンシュタイン家の「明るい城塞」とは対照的です。

さて、バーベンベルク朝の時代が終わってハプスブルク家の時代(1273年−)になると、実直なリヒテンシュタイン家の人々はこの新しい主君にも誠実に仕えました。しかし、14世紀の終わり頃に、一族のヨハンという人が何をしでかしたのか、主君からすごい怒りを買ってしまいました。そしてハプスブルク家のアルプレヒト5世はリヒテンシュタイン家の一族を騙して宴会に呼び、そこで一網打尽の牢屋送りにしました。彼らがもっていた23の城も、牢に入っている間に没収です。ちょっとひどすぎかも。

ところが、こうして文無しになったリヒテンシュタイン家の人々は凹みませんでした。そこから200年にわたって主君のため仕事に励みつつ財産を作り、位も世襲侯爵に昇進します。さらに、総理大臣、大蔵大臣、枢機卿、将軍も輩出したそうですよ。

リヒテンシュタイン家の武器は、仕事の才能だけではありません。商才にも長けていました。ハプスブルク家に重用された背景として、実はこの王朝にだいぶ融資をしていた事実もあるんですよ。ちなみに、リヒテンシュタイン家の渾名は「富豪侯」だったそうです。そして、お金の使い方をよく知っていることは、リヒテンシュタイン家のご領地の人々にもしばしば幸運をもたらしました。

ここからいよいよリヒテンシュタイン侯国発祥の準備が始まります。17世紀の末になると、仕事と商売で力をつけたリヒテンシュタイン家は、その実力にふさわしく「帝国使節会議」に出席できる身分になりたいと考えました。が、そのためには主君であるハプスブルク家の版図に入ってない場所に国をもっていなくてはなりません。そこで一族のヨハン・アダムは、今のリヒテンシュタインのシュレンベルクに目をつけました。例のモントフォールト家の血筋にあたるホーエンエムス家の伯爵が、借金で困ってその土地を売りに出していたのです。で、いろいろ苦労した挙句ヨハン・アダムは1699年1月18日に11万5千グルデンでシュレンベルクを手に入れました。

しかし、これではまだ領地が狭いということで、リヒテンシュタイン家の夢は簡単には実現しませんでした。そこでヨハン・アダムは次のチャンスを辛抱強く待ちます。すると1712年2月22日、ホーエンエムス家の伯爵ヤーコプ・ハンニバルが借金漬けになってたまらず、ファドゥーツの地を売りに出しました。よほど資産管理ができてない伯爵家だったんですね。今だったらサラ金の餌食ですよ。もちろんヨハン・アダムは喜んでこの土地を購入します。代金は29万グルデンでした。これでホッとしたのか、ヨハン・アダムは同年6月16日に亡くなってしまいましたけど、まあ幸せな気分であの世に行ったのですからよしとしましょう。

ヨハン・アダムには世継ぎがいなかったので、こうして手に入れた土地は一族のヨーゼフ・ヴェンツェルに引き継がれました。しかし彼はハプスブルクの宮廷になくてはならない逸材だったので、そんな土地など構ってはいられません。そこでヨーゼフ・ヴェンツェルはシュレンベルクとファドゥーツを叔父であるアントン・フロリアンの土地と交換しました。

アントン・フロリアンはハプスブルク家の皇帝カール6世の教師を務めていたことがある人物です。その功績もあってか、皇帝は彼にシュレンベルクとファドゥーツを合体させてひとつの国を作っていいと許可してくれました。ついに、「リヒテンシュタイン侯国」の誕生です。

侯国の主となったリヒテンシュタイン家は、晴れて「帝国使節議会」にも出席する夢を実現させました。平和的にハプスブルク家領の外に国をもつという作戦は成功です。しかも当初の目的が目的ですから、リヒテンシュタイン侯国がそれ以上領土を広げる気にならなかったのも当然です。おかげでリヒテンシュタイン侯国はいつまでも不自然に小さいままでした。

以上、今日はリヒテンシュタイン侯国の起こりをご紹介しましたが、この国にはまだまだ面白いエピソードがあります。次回は「なぜこの小国が何百年もしぶとく存在し続けられたのか?」ということをお話ししましょう。


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