オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.082
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囚われのリチャード獅子心王
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デュルンシュタインの町
デュルンシュタイン

ウィーンからドナウ川を60km〜100kmほど遡った一帯に、「ヴァッハウ渓谷」という美しいところがあります。メルクからクレムスまで遊覧船に乗り、川の両岸に消えては現れる中世風の町並みや城を眺めがら行くのはなかなかシックでお勧めですよ。

さて、このヴァッハウ渓谷にはひとつ、曰く付きの城があります。それはデュルンシュタインという小さな町を小高い山の上から見下ろすデュルンシュタイン城です。上の写真にある山の上で半分瓦礫になった城がそれです。この城が廃墟になったのは1645年でした。30年戦争(1618年-1648年)でプロテスタント側のスウェーデン軍に破壊され、そのまま今日に至るまで350年以上も放置さています。

デュルンシュタイン城の廃墟
== 近くで見ると城はこんな廃墟ぶり ==

デュルンシュタイン城を有名にしたのは、イングランドの勇敢なリチャード獅子心王のエピソードです。第3次十字軍遠征(1189-1192)の帰りにオーストリア公の囚われの身となったリチャードがこの城に閉じ込められていたといいます。

この逸話には微妙にいろんなバリエーションがあるのですが、一般には「リチャード王がオーストリア公レオポルト5世(バーベンベルク家)を侮辱したので仕返しに遭った」と記されています。しかし別なオーストリア史研究家の本ではちょっと違うことが書いてありますよ。

その著者の言い分はこうです。第3次十字軍遠征のアッコン攻撃で敵の町にいちばん乗りしたオーストリアのレオポルト5世は、「うひょひょ、これで大手柄が俺のもの」とさっそく町の望楼に自分の軍旗を打ち立てました。しかし、これを見たイングランドのリチャード王はなんだか面白くありません。それで部下とともにすぐレオポルトの軍旗を引きずり降ろしてしまいました。で、リチャードはかなり凄腕の戦士だったため、レオポルト5世は心に恨みを抱きながらもいったん尻尾を巻きます。そりゃ、命あってのモノダネですから、ヘタに意地を張って戦うのは得策じゃありませんね。

そのあと、どうも気の収まらないレオポルト5世はひとつ悪巧みを考えます。それは、遠征から帰る途中のリチャード王を誘拐してやろうということです。しかし、この不穏な動きはどうしたわけかあっさりリチャードの知るところとなりました。そしてこの獅子心王は従者に変装してオーストリア公の目を欺こうとしました。しかしアホというかマヌケというか、帰路を急ぐリチャード王の船はベネチアのあたりで難破、しかも彼は高価な指輪をつけたままだったことで身分がバレ、結局レオポルト5世に捕まってしまいました。1192年のことです。そしてこの王はデュルンシュタインの城に連れてこられました。

しかし、なんでリチャードはレオポルト5世の一味を返り討ちにできなかったんでしょうね。最初から誘拐計画のあることを知っていたのなら、手勢を集めて逆にレオポルト5世を捕虜にすることぐらい考え付いてもよさそうなものですが。遠征でお金を使いすぎて、経費節減に励んでいたのでしょうか?

王が帰ってこないことで焦ったのはイングランド側です。レオポルト5世が意地悪して、どこの城に幽閉したかを教えてくれないため、王を待つ人々はホトホト困り果てていました。そこで、楽人だった騎士ブロンデルが旅に発ちました。リチャード王の居場所を探す旅です。

ブロンデルは自分とリチャード王だけしか知らない歌を歌いながら、ドイツ圏の城をいくつも巡り歩きました。そしてデュルンシュタインに来たとき、彼がその歌の第1節を歌うと、城の中からその歌の第2節が聞こえてきて、やっと王の消息が掴めたといいます。これが本当だとしたら、まさに劇的な再会ですね。なぜなら、上の写真を見てもわかるとおり、あの山の頂上にある頑丈な城の中までブロンデルの声が届くには、盛岡一高の応援団に負けないぐらい人間離れした大声でないと無理だからです。また、そんなに大きな声で歌ったら、すぐに怪しい奴だとバレて逮捕でしょう。これは中世の怪奇です。

真相はどうであるにせよ、1193年2月にリチャード王の居場所はわかってとりあえず一安心。で、そのあとわりと長い身代金交渉を経て、リチャード王は無事イングランドに帰り着くことができました。身代金の金額は15万マルクだそうです。今の価値でいくらになるのかは知りませんが、レオポルト5世はこの資金でいくつかの城を建てたりウィーンの町を修復したりできたといいますから、相当な額には違いないでしょう。でも、こんなに払うことになるくらいなら、やっぱりリチャード王は傭兵を雇ってレオポルト5世を逆誘拐すべきでしたね。

なお、一説によるとレオポルト5世の本当の狙いはリチャードへの仕返しではなく、自分の国の財政難を解決することだったという話しもあります。だから、アッコンにおけるリチャードの無礼は誘拐作戦のいい口実で、むしろ「シメシメ!」たっだ可能性もあると。確かに幽閉といってもリチャード王は牢につながれるといった手荒なもてなしは受けてませんから、レオポルト5世がお金目当てだったの事実でしょう。城の中で「自由に旅ができないのは迷惑旋千万!」と言っていたリチャード王の態度にも、身に危険を察する緊張感は見受けられません。

ついでながら、リチャード側が身代金交渉で1193年に折れたのにはワケがありました。1194年までにイングランドに帰らない場合、別な人が王位に就くことになっていたからです。レオポルトが高い金額を吹っかけたのも、これを知ってて足元を見たんでしょう。

ところで、この件に対するその後のオーストリアの人々の反応はちょっと笑えますよ。デュルンシュタインの町のホームページを見たら、この伝説にあやかった名をもつホテルが2つありました。1つは「Richard Loeweherz(リチャード獅子心王)」で、もうひとつは「Saenger Blondel(楽人ブロンデル)」です。しかもRichard LoeweherzというホテルのHPの「町の紹介」には、「リチャード獅子心王はこの町が受け入れた最初の有名人のお客様である」と書いてます。誘拐してきたのにお客様とはかなり強引ですね。一方、身代金目当てでイングランド王を誘拐したレオポルト5世の名は、恥ずかしくてどのホテルも敬遠してるようでした。

ご参考までに、リチャードとブロンデルの名を冠したホテルのHPをご紹介しておきます。私としては、ブロンデルホテルのほうを特に応援したいところです。

ホテル-レストラン・楽人ブロンデル(英語版)
ロマンティークホテル・リチャード獅子心王 (英語版)

ホテル・レストラン 楽人ブロンデル
ホテル・レストラン「楽人ブロンデル」の看板

おしまいにもうひとつ。十字軍のとき、リチャード獅子心王には好敵手といわれる人がいました。それは、イスラムのインテリ英雄・サラディン(アイユーブ朝)です。でも、私はリチャード王100人でもサラディン1人分の価値に満たないと思っています。エルサレムを奪回したあと、リチャード王は罪もないムスリムを何千人も殺戮しました。これに対して、1189年にエルサレムを制圧したサラディンはキリスト教徒たちに対し、十字架をぶっ壊すだけにしています。十字架ならいくらでもまた作れますから、壊したって問題ないでしょう。

意地汚いオーストリア公レオポルト5世に残酷なリチャード獅子心王、そして余計な血は流さないアイユーブ朝の紳士サラディン。12世紀末のヨーロッパはまだ田吾作の世界で、文明人のムスリム世界には全然及びもつきませんでした。ブロンデルがいなかったら、欧州は完全に恥晒しになるところでしたね。


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