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愛国音楽会だったニューイヤーコンサート
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ラデツキー将軍
ラデツキー将軍(1766-1858)

ウィーンのニューイヤーコンサートの締めは、いつもヨハン・シュトラウス1世の陽気な「ラデツキー行進曲」です。テレビで見ると、聴衆も明るく手拍子なんか打ってますね。また、この行進曲には歌詞もついていて、ウィーン少年合唱団のレパートリーにも入っています。しかし、その歌詞というのはけっこうロクでもないシロモノですよ。歌詞の冒頭はこんなふうに始まります。

Ach, wie herrlich ist doch das Soldateenleb'n,
Kann es denn auf der Welt etwas schoeneres geb'n.

<和訳>
ああ、兵隊生活のすばらしいことといったら!
こんなにいいところが世界にあるだろうか?


初鼻から嘘っぱちでしょ。で、そのちょっとあとに少しはホントのことも出てきます。

Und wer hat das Glueck kehrt zurueck,
der sei froh und singe.

<和訳>
運よく生きて帰れた人は、
喜んで歌っちゃうだろうね。


運がよくなきゃ生きて帰って来れないわけですから、そりゃ無事だった兵隊は鼻歌でも歌いたくなるってものでしょう。しかし、こうして脅かしたままにしておくと人々が兵役を嫌がるかも知れませんから、歌の最後には用意周到な誘い文句も準備されています。

Die Uniform wirkt ganz enorm aufs schoenere Geschlecht,

<和訳>
軍服を着ると女の子にめちゃくちゃモテモテだよーん。


さらに、「生身の人間なのだから、モテモテになったらデレデレしてもよし」とつ付け加えて人を軍隊に引き込もうとするあたりは、なんだか抜け目ないですね。しかも、洒落て韻まで踏んでます。下の歌詞の太字で書いた「auch stolz(アウフ シュトルツ=誇り高いさ!)」と「aus Holz(アウス ホルツ=木でできている)」というところがそれ。

Sind wir Soldaten auch stolz doch nicht aus Holz
Und dann ist das uns nur recht!

<和訳>
我ら兵士は誇り高いけど木でできてるってわけじゃないからね。
だから(お色気に参ったって)もっともだー、もっともだー!


以上の歌詞を見ていると、「ラデツキー行進曲」は、宮廷のご機嫌をうかがう越後屋のヨハン・シュトラウス1世が国民を煙に巻くために「イッヒッヒ」と悪企みを考えながら作った1曲ともいえそうですね。また、こういう歌を小さいときから歌っているウィーン少年合唱団の面々も、さぞかし立派な大人になることでしょう。米カリフォルニア州知事に選ばれたアーノルド・シュヴァルツネッガー(情けないけどオーストリア生まれです)がセクハラをしてたのも、「ラデツキー行進曲」のラストの歌詞に馴染んで感覚が麻痺していたせいだと思います。

しかし、オーストリアだけでなく、世界の人々が正月からこんな曲を聴いて喜んでいるのはなかなかトホホですね。私もそのトホホな聴衆の1人ですが。ヤレヤレ。

ところで、初期のニューイヤーコンサートは大晦日に行われていたってご存知でしたか?最初の演奏が開催されたのは1939年12月31日のことだったといいます。実はそ前の1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併合されているんですね。で、祖国の看板が消えると急に昔の国名を懐かしむ人たちが現れるのは世の常。それで、クレメンス・クラウスという愛国的な指揮者がウィーン音楽のコンサートを開始。表向きは「楽しいシュトラウス音楽会」のフリをしながら、オーストリア第2の国歌と呼ばれる「美しき青きドナウ」とか、オーストリア軍に珍しく勝ちらしい勝ちを与えた将軍の賛歌である「ラデツキー行進曲」を曲目にしっかり入れておきました。また、当時は正月のコンサートじゃなかったので、そのタイトルは単に「特別演奏会」となっていました。

そうそう、付け加えておきますが、1938年のオーストリア人たちは、ドイツに併合されてとても喜んでいました。現地の老人たちに当時のことを訊ねてみたところ、誰もが「みんな万歳して迎えたよ」とか、「これでオーストリアがよくなりと期待したもんさ」と言ってましたよ。でも公式の歴史だと、オーストリアはドイツに侵略されたことになってます。このあたり、実直とはいえ逃げ方の上手い連中ですね。

さて話を戻しまして、ニューイヤーコンサートが初めて正月に行われたのは1941年1月1日のことだったといいます。そして、ドイツ第3帝国崩壊の1945年まで、このコンサートは途切れず行われていました。戦争でボロボロになってるのによく続いたものです。こうなるとほとんど意地ですね。

「ニューイヤーコンサート」という名前が公式に初めて使われたのは終戦の翌年、つまり1946年でした。当時のオーストリアは連合国の占領下にありましたから、「愛国演奏会」の性格はしつこく続いていたんでしょうね。で、長年指揮者を務めてきたクレメンス・クラウス(1946年と1947年だけはヨーゼフ・クリプスが指揮)が亡くなった翌年の1955年、オーストリアはやっと独立を獲得。指揮者もヴィリー・ボスコフスキー(1955年から1979年まで指揮)に変わりました。その後、「ニューイヤーコンサート」の性格は政治的なものから娯楽的なものへと変化を加速させてゆきます。そして1980年代以降にはオーストリア人以外の指揮者も登場するようになり、世界の人々のお楽しみになってゆきました。

なお、これは私の個人的な見解ですが、ニューイヤーコンサートの締めを飾るラデツキー行進曲は、イタリアに対する当てつけじゃないかという気がします。オーストリアは第一次世界大戦で寝返ったイタリアに南チロルを取られています。だから、1848年に北イタリア(当時はオーストリアが占領中)の独立運動を鎮圧したラデツキー将軍の賛歌でコンサートの最後を盛り上げるのは、「イタ公め、早く南チロルを返しやがれ!」という催促なんじゃないかと。もし南チロルがオーストリアに返還(イタリア側から見たら割譲)されて、そのときニューイヤーコンサートの曲目からラデツキー行進曲が削除されたら、私はたぶん笑ってしまうと思います。


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