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オーストリアがベルギーを支配?
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マクシミリアン1世
マクシミリアン1世

海外旅行の観光ガイドだかなんだかを見ていたら、「ベルギーは長年の外国支配に耐え抜き...」という一文を見つけました。それによると、オーストリアも悪徳支配者のひとりなのだとか。確かにハプスブルク家の人がベルギーあたりの公爵を兼ねていたことはありますが、「外国支配」とはなんだか大袈裟という気がします。昔ベルギー国王レオポルド2世がコンゴを植民地にしてすごい暴政を行ってましたが、あれと同レベルのことをオーストリアにされたと思っているんでしょうか?

ハプスブルク家が今のベルギー(当時はブルゴーニュ公国)に君臨するようになったのは、1477年にマクシミリアン1世がブルゴーニュ公女マリアと結婚したことを発端にしています。その後、マリアの父シャルル突進公が趣味の戦争で頓死。なんでもかんでも突撃してたので、自業自得です。で、マリアは1人娘だったので、自動的にブルゴーニュ公国の継承者となり、夫のマクシミリアン1世はその共同統治者に。つまり、ハプスブルク家は侵略なしでベルギーの王座に就いていたのです。

マリアとマクシミリアン1世の組み合わせは親同士が決めた政略結婚でしたが、うまい具合にお互い好みの相手だったので相思相愛に。そして、とても仲のいい夫婦になりました。が、1481年にマリアは馬から落ちて重傷を負い、間もなく死亡。これでブルゴーニュの王冠はマクシミリアン1世とその血を引く息子たちだけのものとなりました。ここでも侵略行為なんて全然ありませんね。

マリアが亡くなると、ブルゴーニュでは「ドイツ系のマクシミリアンはよそ者だから出て行け」という一派の動きが盛んになります。だけどよく考えてみてください、当時の国王とか公爵というのは王族同士で国際結婚を繰り返していましたからオーストリア人もブルゴーニュ人もありません。それに、ハプスブルク家だって元々はスイスのアールガウ(バーゼルの近く)出身でしたが、だからと言ってオーストリアの人は「スイスの支配だ」とは言わなかったでしょ。

ブルゴーニュ公家直系のマリアが死の間際に遺したことばは「みんな仲良くしなさい」でした。人々がマアクシミリアンと強力し合ってブルゴーニュを発展させることが彼女の望みでした。それにもかかわらず「マクシミリアンはよそ者だから追放」という民族主義まがいの機運が高まった背後には、フランス国王の陰謀がありました。ルイ11世が、ブルゴーニュからマクシミリアン1世を追い出して、そのあとこの国をフランスに併合しようと企んでいたのです。つまり、マリア亡きあとのブルゴーニュの内乱は自由を求める国民の戦いではなく、フランス王家がハプスブルク家に対して起こした個人的な挑戦だったのです。

ちなみに、マクシミリアン1世はこの反乱で押されたり押したりしながら最後はルイ11世の息のかかったフランドルの市民たちに捕まり、事実上の負けを潔く認めてブルゴーニュ公退位を心に決めました。しかし、往生際の悪いローマ教皇らの一派はこれを無視、フランドルには2万人の天誅軍を送り込みます。で、このときばかりはフランドル市民も本当の意味で自由のために戦いました。

この戦いでフランドルは最終的に敗北しました。しかし、彼らを本当の敵だったのはカトリックの坊主どもです。ハプスブルク家はむしろ、ブルゴーニュの正常化を図る方向に動いていました。マクシミリアン1世は支配者どころか、ブルゴーニュのよき支え手だったと言えるでしょう。

そういえば、ボヘミア王国で最も愛されていた国王カレル4世もゲルマン系のルクセンブルク家出身でしたから、元々はよそ者です。しかし、この国王は大変な名君でしたから、今でもチェコ人にとって国の誇りにされています。間違っても「ドイツ系のカレル4世に支配された」なんて被害者意識をもっているチェコ人なんかいません。

また、今のノルウェー国王はデンマーク出身です。スウェーデンから独立するとき、ノルウェーの人々は王様がほしいと思いました。でも、自国の平民を国王に格上げしても他国じゃ相手にされないので、長い歴史を持つ他国の王家からもらってきたのです。で、これを以ってデンマークのノルウェー支配と言う人もいませんね。

他国から来た人が王位に就いたらなんでもかんでも「外国支配」というのはやっぱり間違いです。あの観光ガイドブックは記述を訂正すべきでしょう。


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