オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.077
前に戻る


凄いおばさん!アンナ・ザッハー
line


アンナ・ザッハー
アンナ・ザッハー

今日はアンナ・ザッハー(1859-1930)という人についていろいろ調べておりました。ウィーンのホテル・ザッハーを貴族らの社交の場に育てあげた女性です。しかし、意外にこの人の人物像を詳しく描いた資料はないものですね。とりあえず今日は、わかったことだけでもご紹介しておきます。

ホテル・ザッハーといえばサッハートルテで有名ですね。1832年のある日メッテルニヒが「大事な客人のために何かすばらしいデザートを作れ」という命令を出したのですが、あいにく当日は料理長が病気で寝込んでいました。そのとき、まだ16歳だった料理見習のフランツ・ザッハーがチョコレートとジャムのケーキを作って大いに喜ばれ、これがのちにザッハートルテと呼ばれてブダペストやプラハでも人気を博したという逸話があります。

その後、1849年にフランツはウィーンでデリカテッセンの店を開業。その店でザッハートルテの作り方を覚えた息子のエドゥアルト・ザッハー(1843-1892)も21歳のときに最初の自分の店を開いています。一方、1869年にウィーンでは宮廷オペラ座(今の国立オペラ座)が創設されて、その近くにあったケルントナー門が取り壊されました。そしてケルントナー門のあった土地は売りに出されます。そこで、商売繁盛中だったエドゥアルト・ザッハーはその土地を購入、1876年にHotel d'Opera(オテル ドペラ)という贅沢なホテルを建てました。1階は店とレストラン、上の階は家具のついた貸し部屋という建物です。もっとも、当初からザッハーの名はケーキで有名でしたから、ホテルの名もすぐに「ホテル・ザッハー」と呼ばれるようになりました。

1880年、エドゥアルト・ザッハーはアンナ・フックスと結婚。このときから、アンナはホテル・ザッハーをウィーンで最高の場所にしようと試みました。しかし、1892年にエドゥアルトは短い生涯を閉じてしまいます。こうして、アンナ・ザッハーは、ホテルを1人で切り盛りしてゆかなくてはならなくなりました。

さて、ここでのアンナの活躍ですが、まるでカール6世のあとを継いだマリア・テレジアのようにすごいものでした。彼女はホテルの中で中央集権のような体制を作っていました。当時の人はアンナの働きぶりを見て、「葉巻をくわえながら、深い声で短い命令を下していた」と記述しています。なんだか威厳があって逞しいながらも、さっぱりした人というところが現れていますね。ちなみに、アンナはウィーンで葉巻をくわえた最初の女性だそうです。

アンナの最初のお客は、ハンガリーのアポニー伯爵だったといいます。この名前、どこかで聞いたことはありませんか?そう、ハンガリーの白磁器として有名だったヘレンド(ハプスブルク家のご用達でもありました)に「アポニー」という絵柄がありますね。たぶん、あの絵柄を最初に注文したのが、このアポニー伯爵だと思います。

アポニー伯爵をきっかけにして、他のハンガリー貴族たちもザッハーを訪れるようになりました。そして、その顧客の輪は最後に侯爵や国王クラスにまで広がっていったといいます。そうそう、アンナは貴族や有名人の写真とかサインをコレクションするという下世話な趣味もあったそうですが、さぞかしご満悦だったことでしょう。

ホテル・ザッハーが要人を集めた理由に最高のもてなしがあったのは当然ですが、もうひとつ、このホテルには外界と遮断された部屋というのがあって、これが密会や政治の打ち合わせといったきな臭いことに大変重宝したことも重要なポイントでした。つまりホテル・ザッハーには、政治料亭とか銀座の高級クラブみたいな機能があったんです。アンナは抜け目のない女性ですね。

そういえば、このホテルの顧客リストには皇帝フランツ・ヨーゼフの名がありません。それで一般の解説には「皇帝だけは来なかった」とされていますが、私は違うと思っています。皇帝はたぶんここに来て女優のカタリーナ・シュラットと密会していたけれど、アンナ・ザッハーがその秘密を守りきったというのが真実ではないのでしょうか?そして、だからこそ人々はアンナを信じたのだと。まあ、こればっかりは本人しか知らないことですけどね。

ところで、アンナはいつも王侯貴族や有名人に取り入ることばかり考えていたわけではありません。実は料理場のほうでこっそり貧民への施しもしていました。また、表のホテルではたとえどんな金持ちでも一見さんお断りという態度を通す一方で、いい男なら文無しでも泊めてやったといいます。かと思えば、不況で仕事を失った元ホテル従業員たちが他の3つのホテルを荒しまわってザッハーを囲むと、葉巻をくわえながらすごいウィーン弁でまくしたててこれを追い返し、ホテルにあったオーストリア皇帝とプロイセン皇帝の肖像画を守りきったこともあるとか。さらに、ある怒り狂ったお客が「このホテルを経営する男と直接話しをしたい!」と主張すると、「ホテル・ザッハーはこのアンナそのもの、他の何者でもない!」と言い返す場面も。ただでさえ女性でありながら絶えず葉巻をくゆらしているおかげで変人扱いされていたアンナは、おかげでかなり気難しい人と思われていました。ただし、「愛すべき気難し屋」という表現でね。

このほかアンナについてわかったことといえば、フランスのブルドッグを飼っていたということがあります。ブルドッグというところがなんだかアンナらしいですね。凄みがないと気が済まなかったんでしょう、きっと。

さて、こうして繁栄していったホテル・ザッハーも、第一次世界大戦でオーストリアが負けると、黄昏の時代を迎えます。共和制への移行で貴族は没落、経済の疲弊で富裕な市民も貧乏になってゆき、このホテルの顧客層はどんどん衰退。そしてアンナは1929年に経営を退き、翌1930年に亡くなりました。緊張の糸が一気に切れたのでしょう。その後ホテル・ザッハーは1934年にギュルトラー家に買い取られ、ザッハー家の手を離れています。古きホテル・ザッハーの時代はこれで終わり。「ホテル・ザッハーはこのアンナそのもの!」ということばは本当でしたね。アンナの葬儀には1万人以上の参列者があったといいます。

気難しいと言われながらもアンナが人々に愛された理由はたくさんあると思います。いちばんよく取り上げられる葉巻をくわえた凄みもそうでしょうけど、陰で貧民を助ける優しさとか、いつも自分の意思をしっかり持ち、どんな問題にも自ら立ち向かった勇気、そしてホテルがダメになったときにあっさり身を引く潔さのほうがもっと大きかったでしょう。ハンガリー貴族たちが最初の顧客層だったというところには、強い意志で権力にも屈しない雰囲気をもつアンナのオーラが、ときどきハプスブルク家に逆らうマジャール人の心を惹いたためとも考えられますね。ひょっとしたら、皇帝フランツ・ヨーゼフが来なかったというのも、ハンガリー人たちがお願いして作った伝説なのかも知れません。

しかし、アンナのこうした豪快な性格はどこに起因するんでしょうね。で、調べてみたところ、彼女は元々肉屋の娘だったということがわかりました。オーストリアの歴史の一幕を作った人物が肉屋で生まれていたとは...。なるほど、これなら王侯貴族と貧民の両方とうまく付き合えるのももっともです。

おしまいに、アンナの記憶は今でもオーストリアの人々の間に残っています。ホテル・ザッハーが創立125周年を迎えたとき、オーストリア・タバク社は、「アンナ・ザッハー葉巻」というのを発売しました。1本25ユーロもしますけど、オーストリアみやげにいかがでしょう?

アンナ・ザッハー葉巻
アンナ・ザッハー葉巻


line

前に戻る