オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.073
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ウィーンとしのぎを削ったドナウの町
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クレムスの町

今日は四方山話しです。

今のオーストリアの都市の人口といえば、1位ウィーン153万人、2位グラーツ24万人、3位リンツ21万人、4位ザルツブルク13万5千人、5位インスブルック11万7千人といったところで、ウィーンがダントツの規模を誇っています。しかし、今から何百年も昔に遡ると、実はウィーンと規模を張り合う町があったんですよ。

その町の名はクレムスといいます。ドナウ川のほとりにある、中世風のしっとりとした町です。このあたりには約5万年前の旧石器時代から人の住んでいた跡があるのですが、ウルビス・クレミサ(urbis chremisa)という名で文献に町が初登場したのは995年のことでした。ハプスブルク家が来るより約280年も昔ですよ。そしてクレムスは13世紀まで、ウィーンと町の力を競うほどだったといいます。

クレムスがさびれていったいきさつについては詳しく書いた本がないので、ここでは私の部分的な知識と想像で書くしかありません。でもそれを想像するのはそう難しいことではなさそうです。

まず下の地図を見てください。この地図の中で赤い部分はオーストリア発祥の地です。オーストリアは元々東方から来る異民族(異教徒)を防ぐキリスト教側の砦という位置付けにあり、その昔オストマルク(Ostmark=東方辺境)と呼ばれていました。それが僻地じゃなくひとつの国として名を記されたのは996年のことです。当時の文献(→こちらのサイトにある文献の画像がそれ)で初めてオスターリヒ(Ostarrichi)と地名が書かれたのですが、Ostarは「東方の」という意味で、richiは今のドイツ語で「帝国」とか「国」を意味するReichにあたります。そう、10世紀末のクレムスは当時のオーストリア本土の中にあり、ウィーンはその外だったのです。ちなみに、その頃のオーストリアの領主はバーベンベルク家、そしてその居城はクレムスよりさらに西のメルクというところにありました。メルクも今では人口1万人にも満たない小さな町ですが、なぜかウィーンに負けないほど大きな「ドナウの巨艦」と渾名される修道院があります。

初期のオーストリア

10世紀のオーストリアのすぐ北には当時大国だったと言っても差し支えないであろう「ボヘミア王国」がありました。そのボヘミア王国もウィーンよりクレムスに近いですね。要するに大昔の日本でいうなら、クレムスは大陸に近かった九州の卑弥呼の国、ウィーンは大和の国とでも置き換えられそうです。

さて、旧オーストリア本土内にあり、ボヘミア王国にも近いという条件のほか、クレムスにはドナウ川の港もありました。陸で物を運ぶのが難しかった時代、船は大量の物資を運ぶのに最適な手段だったのでしょう。こうしてクレムスはワイン、穀類、塩、鉄などの取引から得られる通関税を糧に発展し、当時の人口は2万人でウィーンと同じくらいだったそうです。もっとも、その頃の条件を考えると、むしろウィーンのほうこそよく2万人もいたな、という気がしますが。

ところが、ウィーンとクレムスはこのあと立場が大逆転します。まず、オーストリアの領土が拡大して、王宮がウィーンに移ってしまいました。また、それからしばらくしてバーベンベルク家が断絶。同じ頃神聖ローマ帝国の帝座も空位になって、そこにスイスのアールガウの伯爵だったルドルフが就きます。1278年のことでした。そして、旧バーベンベルク家のご領地だったオーストリアもハプスブルク家の統治時代を迎えます。このとき神聖ローマ皇帝の座を狙っていた大国ボヘミアのオタカル王はルドルフ1世を討とうとしましたが、ヒサンにも逆に返り討ちに遭う始末。これでボヘミア王国はダメダメになってゆき、政治・経済の力はますますウィーンに集まってゆきました。

もっとも、日本で堺の町が栄えたように、商業都市としての存在意義のあったクレムスも、即刻徹底的に没落したわけではありません。むしろウィーンを顧客とした物資の中継基地として、その後もある程度栄えていたようです。

そして最後の追い討ちは政治ではなく経済面からきました。その原因は、19世紀の鉄道です。馬車に比べたら船は有利ですが、鉄道と船では大量の物資を高速で輸送できる鉄道のほうが大勝利です。また、クレムスはドナウ川の北側にあるのですが、土地が平らなのは南のほうでした。当然のことながら、ウィーンから西に向かうエリザベト鉄道がとったのも南ルートでした。昔は自然の要塞だった北側が有利だったんですけど、今度はこれが仇になったわけですね。こうして鉄道輸送が発展するのと反比例してドナウ川の船舶輸送は細ってゆき、クレムスは時代にだんだん取り残されてゆきました。そして現在のクレムスの人口はわずか3万2千人でウィーンの50分の1くらい。もはや勝負にはなりません。

しかしながら、時代に取り残されることは一概に不幸なことともいえないようです。新たな建物を造るお金がなかったおかげで、クレムスは中世から近世の町並みをそっくり残すこととなり、今ではオーストリアで最も美しい町のひとつに数えられているのですから。よってこの町の歴史はめでたしめでたしと言ってもいいでしょう。


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