オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.069
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トホホだったウィーンの語源
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ウィーンの町
ウィーンの町

ウィーン(Wien)という町の語源を調べてゆくと、けっこういろいろな説に遭遇します。1冊の本を読んだだけでは早合点できませんよ。中にはとんでもないのもありますから、本当に油断も隙もありません。しかし、いったいどの説を信じたらいいんでしょうね?

もっともいいかげんなのは、「ワイン(Wein=ヴァインと発音)が訛ってウィーン(Wien=ヴィーンと発音)になったという説です。確かに Wein と Wien は字が似ていますね。でも、言語の訛り方にはある種の規則性というものがあります。で、ドイツ語の場合、中世の「イー」という発音が「アイ」という発音に変わるという規則の例はありますが、その反対は聞いたことがありません。よって「ワイン説」は、たぶんオーストリア人のダジャレを真に受けた人が書いたガセネタでしょう。

そうそう、ウィーンにはこうしたダジャレにもう一つ Weib(発音はヴァイプ、古いドイツ語で女性という意味)を加えて、「Wien、Wein、Weib」という歌があります。どうせならこの Weib も入れて、「ウィーンはワインに酔った女性たちが建設した町」なんていう説も作ったらどうでしょう?もっとも、今のドイツ語でWeibというと「この海女!」という意味になりますので、くれぐれも実際の会話のときこの単語を単独では使ったりしないようにご注意くださいね。

さて、お次の説ですが、「ウィーンは風が強いから、イタリア語で『風』を意味するvento と『よい』を意味する buonaを合わせた vento buona をベースにローマ人が vindobonaと銘名、その vindo(ヴィンド)がさらに訛って Wien(ヴィーン)になった」という説も読んだことがあります。しかもこの説はほぼ定説扱いらしいですよ。しかし、 vento は男性名詞で buona は形容詞の女性形ですから、よく考えるとちょっと文法的にムリがありますね。また、ウィーン名物の風は肺の風土病の元凶でもありましたから、どちらかといえば迷惑な存在。これを buona (よい)と表現するには相当な忍耐力が必要だと思います。よって、「よい風説」も半分ハズレとしておきましょう。

一方、「ウィーンの元々の語源は vindo mina というケルト語で、その意味は白い川だった」とする説もあります。で、そこにやってきたローマ人がここに駐屯地を築いて vindo bona と名付け、最後にここから do と bona が省略されてWien になったというのです。これはなんだかもっともらしいですね。ただ、私は古代のケルト語なんて知りませんから、この「白い川説」が正しいかどうかは判断しかねます。

そんなわけで、今のところ私がいちばん信じているのは、ケルト語で「森の小川」を意味する「Veduna」が元々の語源という説です。ひとことにケルト人といってもいろいろな部族がありますが、ローマ軍が来る前に今のオーストリアのあたりに住んでいたのはイリリア系の人々だったといいます。彼らはこの地にノリクム王国という国を作っていました。そしてA.D.50年頃ここにやってきたローマ人は、当時森だったところで質素に流れる小川(Veduna)にちなんでそこに vindobona という駐屯地を築き、これが vindo → vin → Wien になっていったというあたりが、いい落としどころでしょう。

ちなみに、その大元の Vedunia と呼ばれていたボロ川は今でも存在しており、その名は「ウィーン川(die Wien)」と言います。これはドナウ川に注ぐ小川で、ナッシュマルクト、ホテル・インターコンチネンタル、シェーンブルン宮殿を結ぶあたりを細々と流れています。今ではその一部が周りがコンクリートで固められたり地下に潜ったりして、下水道のようにみすぼらしくなっていますが。

そういえばウィーンには「アン・デア・ヴィーン劇場」という施設がありますけど、これは「ウィーン川沿いの劇場」という意味になります。劇場が出来た当時は、ウィーン川もしっかり表を川らしく流れていたのでしょうね。しかし、歴史文化との都として世界に名高いウィーンの語源がこの下水まがいのトホホな川というのは、なんだかオーストリアらしくて笑えます。ハプスブルク時代にこの国は名目上の領土でこそ大国だったこともありますが、その実態はまったくの見かけ倒しでしたから、ウィーンとウィーン川の関係とよく似ています。

余談ですが、19世紀の東欧がプロイセンやロシアの軍事力にさらされずに済んだのは、オーストリアがひ弱な大国だったからだと言われます。当時、ドイツもロシアも東欧に領土がほしいと思っていました。しかし、両者がマトモに対戦すればお互いに無傷というわけにはいきません。そこで、とりあえず東欧をオーストリアに預けておいたというのです。確かにトホホ大国のオーストアから領土を分捕ることならいつでもできますね。そして第一次世界大戦後にオーストリア帝国が解体されると、この老大国から切り離された東欧諸国はついにプロイセンとロシアの餌食になってゆきました。トホホのオーストリアといっしょだったら、もう少しマシにな運命になっていたと思いますが。

こうして考えると、トホホなことはオーストリアのよさだったのではないかと思えてきます。ウィーン川はこのままみすぼらしく流れていたほうがいいでしょう。ヘタにライン川みたいに立派になって国の誇りにされれば、それが暴走して他国や他民族を軽く見るようになるかも知れません。ウィーンの人々が他の国の都会の人々よりずっと奥ゆかしいのは、この町の語源となったウィーン川のみすぼらしさと無関係ではないような気がしてきました。


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