オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.068
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ホテル・ブリストルの大移動
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ホテル・ブリストル
ウィーンの名門ホテル・ブリストル

ウィーンきっての名門ホテルといえば、インペリアル、ザッハー(オーストリアの発音ではサッハー)、そしてブリストルが有名ですね。3つともかつてハプスブルク家の人々が出入りしたことのあるホテルです。立地もすべてウィーンの1当地ですが、特にホテル・ブリストルのケルントナーリング1番地(Kaerntnerring 1)は覚えやすいですね。

ただ、元々オーストリアの迎賓館として造られたインペリアルやハプスブルク家の人々がお忍びに使ったというザッハーが最初から同じ場所に建っているのに対して、ブリストルだけはちょっと生き物みたいに動いていますよ。

ホテル・ブリストルは1892年6月26日、ウィーンでレストランを経営していたアンドレアス・キューラーによって開業されました。苗字にvonがついてないところを見ると、主はどうやら単に裕福な市民だったようです。念のため私の家にある必殺のオーストリア辞典「Oesterreich Lexikon」とインターネットでキューラー氏を調べて見ましたが、やっぱりどこに載ってませんでした。

しかし、ブリストルの格式は設立早々からけっこう高かったようです。1908年1月12日午後5時に皇帝フランツ・ヨーゼフが息子のルドルフ皇太子の妃となるベルギーのシュッテファニー王女を訪ねてこのホテルに来たという記録がありますから。

ところで、このシュテファニー王女訪問のときフランツヨーゼフが通ったブリストルのドアは、もう残っていないのだそうです。それどころか、このホテルの元の壁もほとんど消え、開業当初から残っているものといえば、今の2階の一部だけなのだとか。これには第二次世界大戦による破壊のほかに、もうひとつの大きな理由がありました。それは、ホテル・ブリストルがはっきりした意思をもって、ちょっとづつ場所を移動していたことです。

途中のプロセスについて詳しく書いた資料は今のところ私の手元にありませんが、このホテルは隣接する土地をちょっとづつ買い取りながら建物を改築して位置をずらし、ひたすらケルントナーリング1番地を目指していたといいます。そして、とうとう今の住所にたどり着いたときには、最初の場所から100m以上も移動していました。すごいですね。

ちなみに、最後にオーナーが入手したケルントナーリング1番地は、そこで100年以上も店を構えていた商人の名にちなんで「スィアクエッケ(Sirkecke=たぶん、スィアクさんとこの角という意味)」と呼ばれていたそうです。

ところで、建物を100mも移動して待望の1番地を手に入れることにより、ホテル・ブリストルには営業面で何か得るものがあったんでしょうか?ホテル・インペリアルはカイザーリング6番地(Kaiserring 6)、ホテル・ザッハーはフィルハーモニカー通り4番地(Philharmonikerstrasse 4)に澄まして立ったままで、1番地なんか狙った形跡がありません。しかし客の入りはどこも大して変わりません。経営的に見ると、どう考えてもブリストルは意味なく大金を使っていたと言わざるを得ないでしょう。しかし、長い年月をかけてこんな冗談をマジメにやってのけるところは、ある意味ですごく賞賛に値するという気もします。合理化やリストラに躍起になっている今の各国の企業には到底考えられない、懐の深い企業文化がホテル・ブリストルにはあったようですね。


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