オーストリア散策エピソードNo.051-100 > No.066
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楽しく踊れる死の舞踏 - ラングアウス
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ワルツの風景
18世紀のマトモなワルツの風景

テレビでウィーンのニューイヤーコンサートが放映されるとき、いっしょに映るウィンナーワルツのダンス風景。これはとてもステキですよね。しかし、18世紀末から19世紀はじめにかけてのウィーンのダンスは、必ずしも優雅といえるシロモノではありませんでした。命懸けで暴走ダンス競争に走る人がたくさんいたからです。

ウィンナーワルツは見かけと違ってずいぶん激しい踊りです。私もオーストリアの人からそのステップの基礎を教えてもらいましたけど、いざ音楽に合わせて踊ってみると、目はひどく回るし体のバランスはすぐ崩れるしで、なかなか大変でございました。テネシーワルツとはワケが違います。

さて、これだけ大変な踊りながら、ウィンナーワルツのメロディーがもつ官能的な響きはとてもロマンチックで、聴いてるだけでもうっとりするところがありますね。このメロディーを余裕で聴きながら踊りを楽しめるようになったら、さぞかし素晴らしい気分に違いありません。しかし、ひとつの刺激を克服すれば次の刺激を求めるのは、人の常です。ウィーンの人々もそうでした。誰も追いつけないくらいの猛スピードでグルグル回ってみせようと、いつしかすごーい暴走ダンスに突っ走っていきました。ヤレヤレ。

こうした競争の最たるものが展開されたのは、「柳に映える月光館」という舞踏会場でした。そこは約20組が踊れるところで、舞踏会は夜の8時に始まり翌朝の5時まで続いたといいます。かなり不健全な営業時間ですね。しかも、この「月光館」の名物はウィンナーワルツの中で最も荒っぽいという「ラングアウス」。これは激しく速く、前へ前へとターンしてゆく獰猛なダンスで、おまけに会場を休みなしに6周も7周もするのが常だったそうです。当然のことながら、その重労働がもとで気絶したり発作を起こす人は数知れず。特に当時の女性はコルセットできつくウエストを締めていましたからなおさらです。また、ウィーンというのはなぜか風の強いところで、昔から風土的に肺の病気の多いところでした。これに加え、激しい踊りによって舞踏場いっぱいに舞い上がる床の埃で、人々は肺をさらに痛めていったといいます。もうムチャクチャですね。

この悪名高きダンスの暴走競争であまりにも犠牲者が続出となったことから、1791年にはついに「ラングアウス禁止令」というものが発布されてしまいました。しかし、そんなものでウィーンの若者たちは引いたりしません。1794年、1803年、1804年に改めてラングアウス禁止の警告が繰り返されても、「死神なんかこわくない」とばかりに、全部あっさり無視されてしまいました。で、挙句の果てには「会場でラングアウスを黙認した店の経営者には20フローリンの罰金を課す」という法令も出されたのですが、これまた空振り。罰金の出費よりも入場料の収入のほうが多かったんでしょうか?

オーストリアでは(というより欧州全体で)、ペストの流行した時代に「死の舞踏」というブキミな絵が描かれていました。この病気、相当怖かったんですね。しかし、ラングアウスの死の舞踏を恐れる人は全然いなかったみたいですよ。なぜでしょう?ペストの時代の命の運命は死神という他者に握られていたのに対し、ラングアウスでの運命は自分の手加減で決められるという自信があったせいでしょうか?確かに同じ危険なものでも、自分の運命を自分で左右できるのなら、少しは気ガラクになりますね。当時ラングアウスを踊って亡くなった人も、幸福な気持ちで天に召されていったのかも知れません。でもやっぱり、あのダンス競争熱は無謀だったと思います。古いウィーンの歌に「天国の鍵を持っていたとしても、私はもうちょっとウィーンに残っていたいのさ。天使さん、気を悪くしないでおくれ。」というフレーズがあります。そう、若くしてウィーンを去るなんてもったいないですよ。天国よりもずっといいところなのだから。


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