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意味不明だった1848年のウィーン革命
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ウィーン3月革命
ウィーン3月革命

1848年は欧州で革命の嵐が吹き荒れた年です。もちろんウィーンもその例外ではありません。ただ、ひとつだけ奇妙なことが。それは、何のために革命を起こすのか誰もよくわからないまま、なんとなく暴動を起こしていたということです。

3月13日、学生から協力の要請を受けた貧民の労働者たちが市の門へと行列を作ります。市の内側に住む工場主たちを相手にひと暴れできそうだということで、作業場からスコップ、ハンマー、まさかりなどを持って。当時のウィーンは城壁のような壁に囲まれていて、貧民たちはその外に住んでいました。ドイツ語で「市民」のことはビュルガー(Buerger)というのですが、これは「城壁(Burg)の中に住む人」を指したことばです。これに対して、城壁の外に住む貧民たちには市民権などまったくありませんでした。それから、当時の学生が労働者と連帯した理由は、ビンボーということで共通していたからだといいます。

労働者たちが破ろうと試みた門はショッテン門、ブルク門、フランツ門の3つ。その内2つは失敗でしたが、ショッテン門だけはあっさりと突破。そこには20名ほどの衛兵がいたのですが、袋叩きに遭っては大変と言って事態の傍観を決め込んでいたので。

ところが、この革命で労働者たちが熱心に襲撃したのは、なんと王宮ではなく、工場でした。自分たちの仕事を奪う機械憎しと、これを壊しにかかったのです。ちょっと革命とは趣が違いますよ。また、日頃貧民に好意的だった経営者の工場には手を出さないところなど、なんだか良心的な破壊活動ですね。

さて、議会までたどり着いた一団はというと、やって来たのはいいけれどそこで何をすればよいのかわからず立ち往生。そして気まずい雰囲気が漂ってきたとき、1人の男が演説を始めました。演台がないので4人の男の肩車に乗って話したところはトホホで、内容もとにかく政治を刷新しようという当り障りのないものでしたが。で、そこにいた当局側の議員は「わかったわかった、皇帝に言っとくよ」と言ったのですが、せっかく集まった群衆はどうも勢いが止まらず、メッテルニヒ打倒とか憲法要求とか言って食ってかかる始末になりました。そこでついに軍隊がデモの一団を追い散らします。

これを聞いてウィーンの市民たちの中にも、古い武器を持って革命側に参加する者がありました。なんとなく体制を変革するって、響きがよかったので。ただし、市民たちに労働者の一団と連帯しようという意識は希薄でした。それどころか、両者はむしろいがみ合う立場でした。

一方、議会前から追い出された労働者たちは頭にきて市内の武器庫を襲撃にかかりましたが、石や木片頼りでは無理。勝負になりませんでした。仕方ないので素手で王宮の大砲を奪おうとする者も現れましたが、これも無茶ですね。そうそう、このとき群集に大砲をぶっ放すように命令された砲手長のヨハン・ポレットは、そこまですることはないでしょうとこれを拒絶。砲口の前に立ちふさがったというエピソードが残っていますよ。その史実を後世に伝える記念のプレートが、今でもミヒャエル広場の隅にこっそり残っているそうです。

その反面、工場主を中心とする市民軍の貧民・労働者に対する追及の手は厳しかったといいます。この3月革命で命を落とした貧民や労働者(31名という説があります)の大半は、皇帝軍ではなく市民軍の手によってに討たれたのだといいます。亡くなった方はお気の毒ですが、フランス革命ほど犠牲者が多くなかったのはせめてもの救いです。

デモ隊の工場破壊や商店略奪は翌日も続きました。それで翌々日の3月15日、皇帝フェルディナントは妃とともに馬車に乗って、ロクに護衛もなしで市内を一回りしました。懐柔策のつもりです。この皇帝、無能ながら「善人フェルディナント」と渾名されるいい人だったので、市民はにこやかに応えてくれたそうですよ。で、皇帝も親切に人々の要求していた憲法を発布。これも革命らしくありませんね。ついでながら、当時、皇帝打倒を考えていた人はごく少数だったようです。

3月革命は宮廷にタナボタももたらしました。ソフィー皇太后の一派がドサクサに紛れて、メッテルニヒを失脚させることに成功したのです。この超保守派の大物には、宮廷の人たちも辟易していたようで。しかし、宮廷が得する革命なんてどこの国にもないでしょうね。

1848年の革命劇はその後も5月と8月にすったもんだを繰り返したあげく10月の最終戦に入ったのですが、その時の戦闘に参加していたのはプロレタリア傭兵とその指揮官の学生の一団、および市外区の職人からなる国民軍とよそから来た義勇軍でした。皇室打倒など最初から念頭になく、最後は外野同志の戦いになったウィーン革命。いったいこれはなんだったんでしょうね?

日本の世界史の教科書がウィーン革命をほとんど無視しているのは、その顛末があまりに情けなかったせいでしょうか?しかし、こうしたトホホの歴史にこそ、人間の思考回路はよく現れているという気もします。


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