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フランツ2世、オーストリア帝国を発明
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フランツ2世
フランツ2世

歴史年表を見ると、ときどき「1806年、神聖ローマ帝国滅亡!」という記述に出くわすことがあります。「滅亡」って、なんかすごいことが起こったみたいな書き方ですね。では、その帝国滅亡とやらの翌日のウィーンはどうだったかというと、実は別に何も変わっていませんでした。神聖ローマ帝国の皇帝だったハプスブルク家のフランツ2世も元気で、相変わらず芸術家などを取り締まる検閲に精を出していましたし。変わったところといえば、彼の名前がフランツ1世になったことぐらいでした。

神聖ローマ帝国とはドイツ語で Heiliges Roemer Reich Deutscher Nation、つまり「神聖なるドイツ系国民のローマ帝国」といいます。わかりやすく言えば「ちゃんとキリスト教を信じるドイツ系の人々の帝国」という意味です。しかし、この帝国はひとりの皇帝が全土を掌握していたわけではなく、その気になれば諸侯のご領地が何かの拍子に離脱することも可能で、さらにマジャール人やボヘミア人など非ゲルマン系民族もたくさんいるといういいかげんな国でした。これを皮肉ってフランスのヴォルテールなどは、「神聖ではなく、ドイツ的でもなく、ついでに帝国でもない国」なんて悪口を言っています。

さて、この神聖ローマ帝国の皇帝フランツ2世はナポレオンに惨敗。そして意気上がるナポレオンは1804年5月18日、フランス皇帝の座に就きます。調子に乗ったナポレオンは、神聖ローマ帝国の廃止も要求してきました。一方、ハプスブルク家きっての鈍重さを誇るフランツ2世はというと、もしナポレオンの要求をそのまま受け入れれば自分に残される地位がオーストリア大公、ハンガリー国王、ボヘミア国王といった類のものだけとなり、ナポレオンより格下になることぐらいはわかっていました。

そこでフランツ2世は悪知恵を働かせ、ハプスブルク家のご領地に「オーストリア帝国」という名前をつけました。これなら神聖ローマ帝国という看板がなくなっても、皇帝というタイトルだけは使えますから。まさに、オーストリア帝国というのは、フランツ2世の発明品といっても過言ではないでしょう!ナポレオンが皇帝になってから、わずか3ヶ月目のことでした。愚鈍で頑固な皇帝なれど、保身だけはなんと迅速なことか。

こうしてフランツ2世は1804年のうちに「オーストリア皇帝」という新しい看板を立てて保身を図り、1806年の「神聖ローマ帝国閉店」にしっかりと備えておきました。また、帝国が新装オープンとなることに合わせて、気分を新たに自分の名前もフランツ2世からフランツ1世に改名です。ただし、このトホホな帝国の中味だけは全然変わらず、むしろ絶え間ない衰退に磨きがかかってゆきました。そして、そういう国ではなぜか文学や芸術が栄えるんですよね。フランツ2世自身は芸術・文化に理解がないどころか圧力までかけたといいますが、彼のしたことは結局オーストリアの文化レベルの向上に役立っています。

ついでながら、フランツ2世は多くの文学作品を発禁処分にしたので、オーストリア帝国の人々は逆にそれを読みたいという欲求に駆られ、熱心な読書家になる人がすごく増えたそうですよ。政府が発行した「発禁書リスト」をカタログ代わりにして興味のある本をみつけ、それを地下出版社に注文するのだそうです。

ところで、ナポレオンですが、この人のフランス帝国も実はオーストリア帝国に負けないくらいインチキなシロモノでした。元来「帝国」ということばを使うには、その国に複数の民族がいなければならないといいます。しかし、当時のフランス帝国の住民はほとんどフランス人ばかりでした。したがって、本来ならナポレオンは「フランス王国」を名乗らなくてはなりません。しかし、彼は「国王」というとブルボン王家のイメージがつきまとってイヤだと感じて、これを避けるため強引に「皇帝」を名乗るべく、これまた「フランス帝国」を発明しました。

オーストリアとフランスの皇帝のインチキ合戦、どっちもどっちですが、これをまじめにやったところが、なんとなく笑えます。


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