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フィリピーネとフェルディナント大公
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フィリピーネ・ヴェルザー フェルディナント大公
フィリピーネ・ヴェルザー フェルディナント大公

今日は「町娘と結婚した大公殿下2人」のところでも紹介したフィリッピーネ・ヴェルザーとハプスブルク家のフェルディナント大公のことをもう少し詳しくお話ししましょう。

王家の一員といえども、人間にあることには変わりありません。政略結婚しか許されないというのは可哀想ですね。しかし、かたちはどうあれ、中には恋愛結婚をやってのけた人たちもうます。特にハプスブルク家の人々にはそれを望む傾向が強いようです。その代わり、それを果たした人は兄弟からずいぶん非難も受けているようですが。たぶん、心にない相手と結婚させられた負け惜しみのせいでしょう。

フィリピーネ・ヴェルザーはフッガー家と並ぶアウグスブルクの大商人の姪でした。叔父はヴェルザー商会の総帥・バルトロメウスで、遠くはオリエントの貿易も手掛けていたといいます。しかし彼には子供がいなかったうえ、弟のフランツ・アントン(フィリピーネの父)は商売よりも芸術好きでした。そこでバルトロメウスは弟の娘であるフィリピーネを可愛がり、彼女が幼い頃から少しづつ仕事を教えたり、外国出張に連れて行ったりしました。賢いフィリピーネは仕事の覚えも早く、ここで東方から輸入される薬草などの知識も身につけていったといいます。

一方、フェルディナント大公の父はスペイン生まれの皇帝フェルディナント1世です。母親はハンガリーのヤゲロ家のアンナでした。両親は政略結婚だったのですが、運よくフェルディナント1世もアンナも気さくで優しい人だったので結婚後に恋愛感情が芽生え、結果オーライで暖かい家庭を築いていました。

さてある日のこと、ハプスブルク家の君主一行とともにフェルディナント大公はアウグスブルクの町を訪れます。このとき彼はヴェルザー家の館の窓から行列を眺めていたフィリピーネに目を奪われました。一目惚れです。この一目惚れって、けっこうアテになるものなんですよね。よく世間の親は「相手の人間をよく見て」なんて言いますが、あれこれ見すぎるとかえって雑念が出てきます。ひと目見て惚れたら素直にその心に従うのがいちばんだと思いますよ。いいじゃないですか、ひと目惚れで。どんな人格者や財産家が相手でも、相性が悪ければダメです。長い目で見たら、逆にひと目惚れできる相手を選んだほうが幸福でしょう。

この2人の出会いは、ボヘミアで第2幕を迎えました。この地のプレズミク城にフィリピーネの叔母で社交好きのカタリーナ・フォン・ロクサン夫人が住んでいて、そこには貴族たちも出入りしていたのですが、ここにフィリピーネが来ている折、偶然フェルディナント大公がやって来たのです。処世術にも長けていたカタリーナ叔母さんはこれこそ皇帝一家とお近づきになるいいチャンスと考え、その後も折を見ては2人を自分の館に招きました。そして会う機会が増えるうちに2人はとても仲良しとなり、フェルディナント大公はついに2歳年上のフィリピーネに結婚を申し込みました。

フィリピーネは一市民と皇室の王子の結婚が前途多難であることをすぐに察しました。しかし、彼女もフェルディナント大公のことが大好きでしたから、ここで退けば一生の悔いになるだろうと考え、その申し出を受けることにしました。勇気のある女性ですね。

この身分違いの結婚が皇帝に許される可能性はほとんなさそうでした。そこでフェルディナント大公とフィリピーネは1557年1月の深夜、ごく数人とともに教会でこっそり秘密の結婚式を行いました。たぶん、教会は法王とつながっているから、まずは式さえやってしまうばこっちのものということでしょうか?

その後2人の間には子供ができますが、出産も人知れず行われたそうです。しかし、こういうことはいつか結局バレるものです。とうとうフェルディナント大公の父である皇帝フェルディナント1世が2人の秘密結婚を知るところとなってしまいました。しかし、ここでちょっとしたドンデン返しが起こります。皇帝は「しょうがないなあ」とあっさりこの結婚を暗黙のうちながらOKしたのです。理由は、皇帝と皇妃のアンナが仲のいい夫婦だったことにありました。つまり、好きな相手と結婚したのなら悪くないと大らかに考える余裕をがあったのです。ついでながら、フェルディナント大公が父と同じ名前をもっていた理由は、母親のアンナが夫のフェルディナント皇帝を大好きで、息子にもその名前をつけたいと言ったからだったんですよ。

こうして皇帝の許しを得たフェルディナント大公でしたが、兄弟による攻撃はずいぶんあったようですね。そりゃ、やっかみも受けるでしょう。幸福なんですから。また、皇帝のほうも、王家のしきたりを完全に崩すと示しがつかくなるので、けじめとしてフェルディナント大公とフィリピーネの子供たちにハプスブルク家の地位や財産の相続権は与えないという条件だけはつけました。

そのあと、名目上ボヘミア大公だったフェルディナントはチロルの直接統治者に任命されました。このときチロルの議会は市民出身の大公妃は認めないと反発、2人に離婚を迫ります。これに対しフェルディナント大公は短気を起こさず、自分にとっていかにフィリピーネが離れ難い存在であるかを丁寧に説明して、議会の承認をとりつけたそうですよ。その気になったら軍隊でも送り込んで議会を鎮圧することだってできたのに、大した御仁です。フィリピーネが止めたんでしょうか?いずれにせよ、チロル議会の石頭どもは命拾いをしたと、逆に感謝すべきでしょう。

こうした努力が実ったせいか、チロルにいた数年間は2人にとって幸せな日々だったといいます。その後フェルディナント大公には、ポーランド王になってほしいという依頼もきました。しかし、その条件にまたもや市民出身のフィリピーネとの離婚が盛り込まれていましたので、彼はこの申し出を断りました。ポーランド側は無粋なうえにアホですね。嫌いな相手と結婚して頭に来た王と王妃が腹いせに圧政を敷いて国民を苦しめたという例があることを知らないのでしょうか?

チロルにいた時代、フィリピーネは薬草の本を書いたり、寡婦や貧民救済に手を尽くしたりして、とてもいい大公妃ぶりを発揮していました。ただ、双子を生んだときに健康を害し、ここで夫に負担をかけまいとするばかりにこれを隠したため、容態の悪化が表面化してから間もない1580年4月30日、呆気なく永久の眠りについてしまいました。フェルディナント大公が大きなショックを受けたのはいうまでもありません。大公は妃の死を悼むばかりに重病となり、危うく死ぬところだったといいます。しかし残された子供たちのためにも彼は快復、どうにか生き延びました。

さて、話しをまとめましょうか。フィリピーネとフェルディナント大公の秘密結婚を皇帝フェルディナント1世と皇妃アンナが認めてくれたのは、この皇帝夫妻自身が結婚の成功者だったからです。ここから逆に考えると、自分の息子や娘の結婚相手にあれこれ条件をつけようとする世間一般の親は、結婚の失敗者ということになりますね。子供の結婚を成功に導きたいという親は、まず自分の結婚を成功に導くことが先決といえそうです。


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