オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.039
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真摯でウソツキの天才バイオリニスト



フリッツ・クライスラー
フリッツ・クライスラー

ウィーンの音楽家といえば、私はまずフリッツ・クライスラーが浮かんできます。作曲した音楽がウィーンらしい響きをもっているからというだけではなく、クライスラー自身の生き方がこれまたよい意味でウィーンらしいからです。

フリッツは1875年2月2日、音楽好きな医者の家庭に生まれました。元々音楽家になりたかったという父親は、フリッツがまだ幼い頃からバイオリンを教育します。最初に手にしたバイオリンは、4歳のときに父親の友人が贈ってくれたものでした。そして、フリッツは7歳になるとウィーン高等音楽院に入学、ヘルメルスベルガーU世にヴァイオリンを習い、ブルックナーに作曲を学びました。最近は日本でも千葉大学理学部が高校を1年飛び級で入学させるなんてことをしてますが、ウィーンの音大は7歳でもOKですから、ハンパじゃありませんね。それと、ブルックナーは小声で自信なさそうに講義するおじさんだったといいますから、この授業を退屈しないで聴いてあげたフリッツはどうやら子供のときから人付き合いがよかったんですね。

フリッツはこのウィーン高等音楽院を主席で卒業、そのときの年齢は10歳だったといいますから、こりゃモーツァルトと対等なくらい早咲きですよ。その後はパリ高等音楽院に移り、12歳でまたもや主席。このときはドリーブにも作曲を学んでいると言いますが、ドリーブって誰なんでしょう?次いで1888年にフリッツはいよいよ音楽デビューを果たすのですが、その場所は米国のボストンだったそうです。なんで地元のオーストリアでデビューしなかったんでしょうね。でも、米国で行った名ピアニスト・ローゼンタールとの共演は大成功を収めたそうです。ここでの演奏は翌1889年まで続きました。帰国後のフリッツは、家業の医者を継ぐために大学で医学を学び始めましたが、結局医師の資格は取りませんでした。また兵役にもゆきましたが、もちろん軍人などにはなりません。で、やっぱり音楽で身を立てようとしたのですが、どのオーケストラはなかなか彼を雇ってくれませんでした。実力だけではコネとか既得権に勝てなかったのでしょうね。こういうことは洋の東西も時代も問いません。

ところがある日、フリッツに大きな転機がやってきます。彼は演奏旅行中、訪問先の図書館や修道院の資料室でヴィヴァルディをはじめとする大作曲家の貴重な未発表を発掘したというのです。フリッツは早々にその楽譜を使い、各地で未発表曲の演奏を始めました。当時の評論家たちはこれを聴いて、「作曲は素晴らしいがフリッツの演奏は未熟だ」とこきおろしました。ある意味、今のマスコミといっしょですね。本当はフリッツの演奏がいいのに、既存の演奏家の利益を守るために意地悪をしていたのでしょう。さしずめ批評家は越後屋、既存の演奏家はお代官様といったところです。しかし聴衆はそんなインチキ批評などお見通しで、フリッツの演奏にしっかり魅了され続けました。

フリッツもまた、越後屋のいうことを無視しました。ただし、一度だけ怒ったことがあるそうです。それは、ベッルリンの批評家・レオポルド・シュミットが「フリッツの演奏は無神経だが、演奏されたヨーゼフ・ランナーの未発表曲はシューベルト作に匹敵する出来だ」と絶賛したときのことです。フリッツが怒ったのは自分の演奏に対する悪口ではありません。最も尊敬するシューベルトの才能がランナーの作品と同等に扱われたことです。そこでフリッツはシュミットに抗議の手紙を書きます。「あなたの言うことは、シューベルトが私と同等の作曲しかできないと言ってるようなものです」と。

その後のフリッツの音楽人生そのものは、戦争という時代の流れに影響されながらも結構健闘を続けました。1899年にはベルリンフィルに採用されて活躍、1910年には英国デビューでも成功、1914年には再度将校として(たぶん中尉でしょ)ロシアに赴き、負傷。次いで米国滞在を経て1924年から10年間はベルリンに住み、母国オーストリアがドイツ帝国に併合されたのを機にフランス国籍をとってパリに移住。1939年には戦争を避けてアメリカに移り1941年にそこで市民権を獲得。各地を転々としながらも「バイオリンの帝王」と呼ばれるなど、その評価は上々でした。そして1962年にニューヨークで亡くなります。オーストリア人はドイツ系ということで戦争の時には冷遇されたこともありましたが、逆に支えてくれる友も多かったので、彼は結局いつも善戦したようです。冒頭の写真を見てもわかるとおり、フリッツは人相がいいでしょ。フリッツに関する微笑ましい逸話はたくさんあります。例えば列車に乗るとき、フリッツはいつも伴奏者の後から車内乗り込みました。こういう品性こそ、育ちのいいウィーン子です!また、フリッツは同行者の旅費にもケチケチしませんでした。貧乏根性などもっていなかったのです。しかも彼はいつも陽気で回りの人に元気を分けてあげる存在でした。だから周囲のひとたちはもっと元気をわけてもらおうと、苦境に陥ったときのフリッツを励まし続けてくれました。

ところで、この愉快はフリッツは60歳のとき、大スキャンダルの主となります。若い頃見つけた大作曲家の楽譜が、全部偽物だとバレてしまったのです。なんと、本当の作曲者はフリッツ自身でした。これはすごいですよ。だって、今まで「作曲は最高だがフリッツはヘボだ」と言ってた批評家の面目が丸潰れですから。30年以上もの長きにわたり、批評家たちは誰ひとりとしてこれを見破ることができませんでした。一方、フリッツがこの作戦に出たのは、そうでもしないと権威主義の既得権者たちが自分の音楽家としての道を閉ざしてしまうからでした。

偽物とバレたきっかけは、かつてフリッツがベルリンの批評家・シュミットに抗議したときの手紙でした。その内容を不審に思ったニューヨークタイムズの記者が、電信でウィーンにいたフリッツに「もしかしてあなたの作曲では?」と訊ねます。フリッツは答えました。「君の言う通りだよ」と。ついでにいうと、例のベルリンのシュミットの批評に対してフリッツが怒ったのは、自分の書いた小さなッ作品をシューベルトと同等扱いしたあの記事が、尊敬するシューベルトへの侮辱だと感じたからだったのです。なんと律儀で謙虚な人なんでしょう。

ブルックナーの退屈な授業によく付き合い、品性のある行動をとり続け、陽気で気前がよく、ついでにほとんどギャグみたいなウソで批評家たちに墓穴を掘らせた笑える知恵 --- フリッツ・クライスラーはどこか親しみがもてる人物ですね。この人の作ったメロディーの響きとフリッツ本人の人物像はとてもよくマッチしています。やっぱり骨の髄までウィーンらしい音楽家といえば、モーツァルトやヨハン・シュトラウスよりもフィリッツ・クライスラーだと思います。フリッツの代表作のひとつ、「美しきロスマリーン」をこちらでひとつ、お聴きください。

今回の「美しきロスマリン」のmidiファイルは、江崎正和さんの「Es-dur Freak!」というHPの「midiコーナー」から拝借しました。この方がお造りのmidiがいちばんクライスラーの人物像を現していると思ったので。


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