オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.038
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オーストリアの英雄になったフランス人
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オーストリアの歴史上マトモに戦争で連勝できた人といえば、やっぱりプリンツ・オイゲン公(1663-1736)がいちばんでしょう。ハプスブルク家に「仕える身」でありながら、ウィーンの王宮(ホーフブルク宮)に銅像まで立ててもらっています。また、あのオーストリアの天敵だったプロイセンのフリードリヒ2世でさえこの人物のことは「真の皇帝」と讃えていたそうです。おまけに、オイゲン公を讃えたドイツ学生歌(学生歌「プリンツ・オイゲン」の試聴はこちら)というの残っていますよ。

プリンツ・オイゲン
プリンツ・オイゲン公

オイゲン公はまず、オスマン・トルコによる「第2次ウィーン包囲(1683年)のときロートリンゲン公カールの指揮下にあった皇帝軍に入り、ヒラの将校として戦いに参加しました。その後彼はメキメキと頭角を現わし、1697年のゼンタの戦いでは最高指揮官として勝利を収めます。そしてこれに続くカルロヴィッツの和約(1699年)では今のハンガリーを含むドナウ川中流域の全部をハプスブルク家が領有することになり、ウィーンはオスマン・トルコの支配地から一気に遠くなりました。


次にオイゲン公の活躍の場となったのはスペイン継承戦争です。1700年に病弱で息子のいなかったカルロス2世が没し、スペイン系ハプスブルク家は断絶。その領土継承をめぐってオーストリア系ハプスブルク家とフランスのブルボン家が争います。ブルボン家はバイエルンのヴィッテルスバッハ家と組み、一方のハプスブルク家は英国、オランダと同盟、1701年に戦いの火蓋が切って落とされました。オイゲン公はひたすら本業に励み、まずはイタリアでフランス軍と対戦。次いで英マルボロ公チャーチルと共に1704年南独の決戦でフランス−バイエルンの連合軍を打ち負かし、1709年にはウーデナードルとマルプラッケでフランス軍に対し2つの決定的な勝利を収めました。ブルボン家側は東方のハンガリー人を扇動して大反乱を起こさせ、ハプスブルク軍の兵力を東西に分断させようと試みたりしましたが、オイゲン公の戦争の才能の前では思ったほどの効果はありませんでした。

もっとも、スペイン継承戦争の結末そのものはプスブルク家の意にかなうものになりませんでした。オーストリアと組んでいた英国とオランダはフランスの力を削いで自分の思惑が達成されるや戦争から離脱、さっさと和約を結んでしまいます。その前には、ハプスブルク人には珍しく血気盛んだった皇帝ヨーゼフ1世が1711年に早死にしていました。そしてヨーゼフ1世の後を継いだカール6世は単独でフランスとの戦争を試みようとしましたが、さすがのオイゲン公の軍もだんだん防戦に向かい、ついに1714年のユトレヒトの和約で痛み分けに。オランダやイタリアの特定部分(シチリアなど)はハプスブルク家が所領、一方のスペインはブルボン家の傍系が継承する代わり、永遠にフランスとの統合はしないということで話しがまとまりました。しかし、これはオイゲン公の責任じゃありませんね。ハプスブルクの皇帝の政治的な判断ミスのほうが効いているでしょう。むしろオイゲン公なしではオランダやシチリアさえ獲得できなかったかも知れません。

なお、ハプスブルク家とブルボン家の覇権争いはその後もしつこく続きました。たとえばポーランドでは、フランスの息がかかった新王に対しオーストリアとロシアが旧王の息子に肩入れしたことで、またもや王位継承戦争(1733-738)が勃発。こちらのほうはオーストリア側の推す王に軍配が上がりましたが。やっぱりオイゲン公時代のオーストリアはしぶといですね。このほかにもオーストリアとフランスの間では領権を取ったり取られたりの繰り返しがだいぶなされたようですが、オイゲン公がいなかったらいつもオーストリアが取られてばかりだったでしょうね。

ところで、このオイゲン公とはどんな人物だったのでしょうか?実は大変皮肉なことながら、彼はフランス人でした。出身は名門のサヴォイ家、生まれはパリです。かの冒険家マゼランの血も引いているそうですよ。戦争に強いのもうなずけますね。オイゲン公は若いとき、当時のオーストリアよりもずっと洗練されていたフランス文化の中で教育され、ヴェルサイユの雅な環境の中で教養を積みました。はじめはブルボン家に仕えようとしたのですが、断られたのでハプスブルク家に仕官しました。ブルボン王家はあとでずいぶん後悔したことと思います。

当時の欧州では民族という意識が今に比べてだいぶ希薄でした。特に貴族は、主従関係を結んだ相手のほうが大事でしたから。そうしたことから、ハプスブルク家もフランス人だろうが英国人だろうが、使えそうな人物はどんどん採用していました。地元採用だけじゃ、戦乱の18世紀は生き延びられませんからね。

ところで、プリンツ・オイゲン公は戦争の才能ばかり褒められますが、この人は戦いの勝利よりもずっと重要な贈り物を後世に残しています。それは、ウィーンにあるベルベデーレ宮殿です。私はこの宮殿を見て、ハプスブルク家のホーフブルク宮殿やシェーンブルン宮殿よりも趣味がいいと思いました。さすがはフランス文化のもとで教養を身につけた人物ですね。おかげでのちのウィーンの町は、とても魅力的なものになりました。

ベルヴェデーレ宮殿
ベルヴェデーレ宮殿(ウィーン)


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