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日本にスキーを伝えたのはオーストリア将校
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テオドール・フォン・レルヒ
テオドール・フォン・レルヒ

日本にスキーを伝えたのは、オーストリアの将校でした。その名はテオドール・フォン・レルヒ。1910年11月に交換将校として来日した、オーストリアの陸軍少佐です。

レルヒ少佐は日本に来るや、是非雪の多い駐屯地に配属してくれと強く求めました。そして1911年1月1日に、新潟県・高田(現上越市)の歩兵58連隊に送られます。嬉しかったでしょうね。彼はさっそく雪の中を進む軍事訓練として、兵士たちにスキーを紹介します。これに応えて連隊は彼がオーストリアから持ってきた1組のスキーを拝借、それを見本として帝都の兵器工場に送りました。それからわずか2週間後、ツダルスキー型のスキー10本とストックが高田に届きます。また、連隊長の堀内大佐は数名の青年将校にスキーの練習を命令、レルヒ少佐がその講習をすることになりました。

レルヒ少佐が理論の講習を終えて実地訓練を始めると、好奇心の強い高田の中学生たちが見よう見真似でスキーの道具を作ったといいます。それを見てか、堀内大佐はレルヒ少佐からスキーを学んだ将校たちに、越後地方の学校でスキーを教えるように促しました。もちろん、レルヒ少佐も民間人にスキーを教えることには大いに乗り気でした。彼は特にジャーナリストと教師にスキーを教えます。これはなかなか賢いやり方ですね。おかげでスキーはあっという間に遠方まで伝播、レルヒ少佐が高田に来た翌月の1911年2月29日には日本スキークラブができ、これが翌年には早くも6,000人の会員を数えるほどになりました。

1912年2月になると、レルヒ少佐は新たな土地に配転されました。今度の行き先は北海道・旭川の砲兵7連隊です。ここの林師団長もレルヒ少佐にスキーの伝授を要請、少佐は喜んでこれを引き受けるとともに、ここでも高田のときと同じく民間講習にも力を入れました。札幌の大学生なども習っていたそうですよ。レルヒ少佐はここに2年滞在のあと帰国、その後日本を訪れることはありませんでした。

レルヒ少佐が日本にもたらしたのはスキーだけではありません。今や日本語にもなっている「シュテムボーゲン」、「リュックサック」、「ヒュッテ」というドイツ語もいっしょに持って来たんですよ。それから、第一次世界大戦のあと、新潟県上越市の見晴らしのよい山にレルヒ少佐所縁の記念碑がで作られているそうです。また、日本にスキーが伝わってちょうど50年目の1961年には、新たにレルヒ少佐の像も建てられたそうですよ。

レルヒ少佐は軍事訓練と称しながら、女性にもスキーを教えていますね。本当はただ単にスキーが大好きで、これを1人でも多くの人に知って欲しかったのでしょう。同じ頃、日本人にスキーを教えた欧州人にはフランス人もいました。しかし、そのフランス人は上流階級の日本人しか相手にしませんでした。そのせいか、彼の記念碑を作る日本人はいませんでしたし、彼の名前も残っていません。やはり邪念はいけませんね。

ところで、当時のフランスは共和制、オーストリアは帝政でした。しかし、オーストリアの皇帝はそんなに威張り腐っていたわけではありません。例えばウィーンのプラーターでお祭りがあるとき、平民で道が混んでいても、皇帝は無理にこれをあけさせるなんて野暮なことなどしませんでした。そうした国の将校だからこそ、テオドール・フォン・レルヒ少佐は軍人も民間人も区別なくスキーを教えてくれたんだと思います。

P.S.レルヒ少佐が高田で発した第一声はドイツ語ではなく、フランス語だったそうです。通訳の山口大尉が、ドイツ語よりフランス語に堪能だったせいだとか。なかなか紳士ですね。


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