オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.029
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駅の近くの「南チロル広場」
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オーストリアの町には、よく「南チロル広場(Suedtirolerplatz)」という名の場所があります。そして、この広場があるのはいつも駅の近くと相場が決まっています。これ、実はオーストリアの抱えていた厄介な領土問題の名残りなんですよ。

チロルというのはオーストリア西部の州の名前ですが、その地名は今のイタリア北部のメラノ(ドイツ語名はメラン)の郊外にあるチロル村に起源をもっています。その昔ここにいたチロル伯爵が後に居城を銀のとれるメラノに移し、銀貨の鋳造で力をつけて付近の領地を次々と吸収してゆきました。このときチロルの版図に含まれた地域は、北半分がドイツ系住民、南半分はイタリア系住民の土地でした。


今はイタリア領内にあるチロル城

さらにチロル伯爵は新たな銀を求めて今のオーストリア西部にも進出します。そしてシュヴァーツという町で銀を掘り、ハル イン チロルという町で銀貨を鋳造、世に有名なオーストリア銀貨を大量に生産しました。また、シヴァ−ツの銀の産出量が極めて多かったことから、チロル伯爵はとうとう居城をインスブルックに移してきました。

こうして領土の広がったチロル伯爵領ですが、14世紀中盤になると男系の血筋が絶えてしまいます。そして、ただ1人残された相続者のマルガレーテ(渾名は大口女)はその領地が自分には重荷と判断、1363年にこの地をハプスブルク家に譲ります。このときチロルの新しい領主となったハプスブルク家は、円滑な統治権のバトンタッチを狙って、住民の自治権や商権に寛大な主従契約をチロルの人々と結びました。ここで交わされた文書は「チロル自由の手紙」と呼ばれ、その後も長い間チロルの人々の誇りとなりました。

さて、ハプスブルク家から格別の配慮を受けたと意気揚揚のチロルの人々は、オーストリアの中で皇帝に最も忠実な人々となり、450年にわたってハプスブルク帝国のよき臣民であり続けました。ところが、第1次世界大戦でオーストリアが破れると、チロルは南北に分割されてしまいます。この大戦でイタリアが連合国側に寝返るとき、イギリスとフランスはロンドン秘密協定(1915年)で南チロルをイタリアに与えることを約束、戦争終結後の1919年にそれが実行に移されたのです。さらに第2次世界大戦でイタリアとドイツが同盟するとき、ヒトラーはムッソリーニへの配慮からベルリン秘密協定で南チロルの完全イタリア化を支持、当時そこに住んでいたドイツ系住民は年末までにイタリア国民になるかどうかの判断を迫られました。そして約7万人の南チロル人が1943年夏までにオーストリアへと強制移住させられました。その人たちの多くは住む家なんてありません。そこで彼らは駅の近くの広場にテントを張って暮らし始めました。こうしてオーストリアのあちこちの町で駅のそばに南チロルから来た難民のキャンプができ、いつしか「南チロル広場」という地名がついていったのです。

その後南チロル問題はテロだのなんだのでずいぶんもめつづけましたが、1969年11月30日、政府レベルでは解決の歩み寄りがなされます。イタリア政府が南チロルの北部住民の大幅な自治権を認める代わりにオーストリアは領権を求めないということで、互いに妥協したわけです。しかしオーストリアの地図から「南チロル広場」という地名が消えないところを見ると、住民レベルではまだまだ未解決のようですね。私個人としては、それならいっそのこともっと前の住民のケルト人にでも返還したらどうかと思いますが。


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