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商魂逞しき合唱団、清しこの夜で荒稼ぎ
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F.X.グルーバー J.モーア
F.X. グルーバー J. モーア

クリスマスといえば「清しこの夜」。歌集(たとえば野ばら社の「世界の名歌」など)を見ると、この歌にはときどき英語と並んでドイツ語の歌詞もついていることがありますね。それもそれのはず、実はこの歌、オーストリアで作られたものなんですよ。

「清しこの夜」の誕生については、細部で異なるいくつかの説があります。私が聞いた中で最もよく出来上た話しは、オルガンの故障をきっかけに即席でできたという説です。1818年のクリスマス直前に、今のオーストリアのザルツブルク州にあるオーベルンドルフで聖ニコラウス教会のオルガンが壊れたので、急遽若い神父補のヨーゼフ・モーア(1792-1848)が詩を書き、これに音楽教師のフランツ・クサーファー・グルーバー(1787-1863)がギター用の曲をつけたというお話しです。いくらなんでも行動が早すぎで、にわかには信じられませんが。

一方、「清しこの夜協会」という団体の見解によりますと、グルーバーがクリスマスイブにこれを作曲したのには相違ないけれど、モーアが詩を書いたのは1816年のことだったとされています。たぶん、ヒマなときにちょっと思いついてメモしておいたのでしょう。このほうがなんだか本当らしく思えますね。「清しこの夜協会」はまた、「オルガンは突然壊れたのではなく、前々から調子が悪かったのだ」と主張しています。で、楽器職人のカール・マウラッヒャー(1789-1844)がチロルのツィラタールからオーベルンドルフの近くのアルンスドルフに別のオルガンの修理で来たのは1821年、オーベルンドルフのオルガンの修理費について見積もりを出したのは1824年、そしてその修理が完了したのは1825年といいいます。美談とは裏腹に肝心のオルガンの修理をいつまでもほったらかしというころは、さすがオーストリアです。日曜日のミサはどうしていたんでしょう?まさかオルガンが直るまで葬式の日も陽気にギターを弾いていたんじゃないでしょうね。

さて、このオルガン修理にきたマウラッヒャーですが、一説によると「清しこの夜」が初めて歌われた翌年の1819年にもオーベルンドルフを訪れていたらしいという話しがあります。しかも、そのときに限って帰りはいつもの南ルートじゃなく、商売のために北ルートを通ったのだとか。そしてその途中でチロルのヴァイトリングという町に立ち寄り、ここでオルガニスト&音楽教師のブラシウス・ヴィンマーに会って、まず彼に「清しこの夜」の歌を教えたとされています。一方、ヴィンマーはこれをさっそく教会の歌集に加えたといいますが、その原本は失われて行方不明だそうな。ただ、歌が伝わったことだけは確かで、その3年後の1822年にチロルのフューゲンの城でオーストリア皇帝フランツ1世とロシア皇帝アレクサンドロ1世を御前にして、ライナーファミリー合唱団がこの曲を歌ったという記録が残っています。

オーストリアとロシアの皇帝は「清しこの夜」を聴いて、だいぶ喜んだのでしょうね。で、商魂逞しいライナーファミリーはこの歌がカネになることを直感し、ほかのところでも歌いまくりました。また、同じツィラータールのライムバッハにいたシュタラッサーファミリーも、負けずにこの歌をあちこちで歌い回ったそうです。こうして利益に鼻ざとい連中の手により、「清しこの夜」はオーストリアの中だけでなく、遠くは英国にまで伝わってゆきました。また、調子に乗ったライナーファミリーは1939年に米国ニューヨークにも遠征。なにしろ生活がかかってますから、儲けられるうちに歌わないと損という感じで歌いました。そしてここでも「清しこの夜」は大好評。つには英語にも訳されて、さらに広い世界へと伝わってゆきました。

このように、商業主義の原理のもとでは瞬く間に世界に広がった「清しこの夜」ですが、官僚主義に染まった教会の世界では、けっこう粗末に扱われていたようです。まず、その作曲者が突き止められたのは、この歌が米国でも歌われるようになってから36年もたった1854年でした。ベルリンの王立礼拝堂のお尋ねに対し、この年の12月30日付けの手紙でグルーバーが自首してきたという次第です。また、「清しこの夜」が地元のザルツブルク聖堂区の教会歌集に採用されたのは、そこからさらに12年後の1866年でした。こうしてみると、もし商魂逞しい合唱ファミリーがいなかったなら、この歌は未だにオーストリアの寒村で細々と歌われるだけだったかも知れませんね。

NYのライナーファミリー
N.Y.に来たライナーファミリー


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