オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.011
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ウィリアム テルは本当に自由の戦士か?
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ウィリアムテル
ウィリアム テルの像
(スイス アルトドルフ)

今日はウィリアム テル(ドイツ語読みではヴィルヘルム テルという名前です)とハプスブルク家のお話しです。

ウィリアム テルの伝説は日本でも有名ですね。ハプスブルクの悪代官であるゲスラーが、帽子におじぎをしなかったかどで弓の名手のテルに罰を与え、子供の頭の上のリンゴを射るように命じたというお話しです。矢はうまくリンゴを射抜いてスイスの人々は大喜びし、ついでにゲスラーもやっつけてしまいました。まあ、そんな元気があるのなら、テルが矢を射る前に早いとこゲスラーを追放したほうがよかったと思うのですが。

さて、事の次第はおいといて、このテルの伝説はその後スイスの自由を求める心のシンボルとされました。そして、いつの間にかテルの銅像だか石像まで建てられています。しかし、ハプスブルク家だって代々スイスの伯爵でしたし、この一族がどこかで悪政を敷いたという話しはほとんど聞いたことがありません。どうしてこんな伝説ができてしまったのでしょうか?

そこでひとつ、テルの伝説の背景を見てみましょう。まず1291年、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァンデンのスイスの森林3州が永久同盟を結びます。目的はハプスブルクの勢力に対抗することです。しかし、対抗して何を守るのでしょうか?例えば、チロルがハプスブルク家のご領地になったとき、チロルは自由を奪われたでしょうか?そんなことはありません。あのときは「チロル自由の手紙」という文書に基づき、チロル伯の血筋が絶えたとき、現地の農民(といっても地主級の上流農民とは思いますが)がハプスブルク家と直接交渉で自治権を得るという約束が交わされていました。同じ文書はチロルとヴィッテルスバッハ家(バイエルンの王家)の間でもとり交わすされていたのですが、住民はハプスブルク家のほうを信用したのです。そして、ハプスブルク家はその約束を守りました。この実績から、のちにフォアアールベルク(オーストリア西部)の人々も、ハプスブルク家の傘下に入ることを選びました。そんなわけですから、スイスの人々が同家を怖がる必要はなかったと思います。

ところが、スイスのある勢力には別な思惑があったようです。それは、その後のスイスの歴史をみると想像がつきます。例の3州の同盟にはその後いくつかの都市や邦が加盟してゆきますが、その一方でザンクト ガレンやヴォーなど多くの邦が、植民地同然の地位にありました。そしてその植民地状態は、なんと1800年頃まで続きます。住民が蜂起しても、すべて鎮圧されてしまいましたから。さらに、スイスの同盟に参加した各都市や邦の中では、いずれも特定の一族による政治支配が行われていました。こうしたところにハプスブルク家が来ると、自分の邦の農民が余計な自治権を持ちかねませんから、スイスの旧勢力は困ることとなります。そこで、スイスの権力者たちは団結してハプスブルク家と戦い、これを追い出したのではないでしょうか。だとすれば、それを正当化するためにウィリアム テルの伝説が作り出されたとしても、何ら不思議ではありません。

ハプスブルク家の勢力を駆逐した後のスイスは、1476年に強国ブルゴーニュとの戦争で大成果を収め、自国の外にも領土的野心を抱きます。しかし1515年、ミラノ公国に進軍してフランス軍に大敗。これを機に対外侵略は慎んだものの、国内植民地の支配だけはやめませんでした。それを考えると、むしろウィリアム テルの一派が負けたほうが、スイスは平和だったかも知れません。

ところで、ウィリアム テルのお話しがその後スイス以外でも人気を博すきっかけを作ったのは、フリードリヒ シラーというドイツの作家です。この人が戯曲「ウィリアム テル」を書いたのは1804年でした。これはナポレオンが活躍し、むしろハプスブルク家は旧勢力という扱いだった時代です。シラーという人はとても純粋な心の持ち主でしたから、ナポレオンが各地の独立に介入する様子を見て感動し、思わずこの作品を書いてしまったのでしょう。でも、その後ナポレオンが独立した国を搾取したのを知ったら、さぞがっかりしたことでしょう。続いてイタリアのロッシーニがウィリアム テルを作曲したのは1829年です。当時のイタリアは独立を目指してオーストリアと敵対していましたから、当て付けに「ハプスブルクの悪代官をやっつけろ!」という曲ができても、当然の成り行きです。

まあ、以上に述べたことは、かなり私の想像に任せて書いたウィリアム テルの背景です。本当のところはどうだかわかりません。ただ、見方を変えれば、歴史や伝説はどうとでも変わる、ということだけはおわかりいただけたと思います。


1507年のウィリアム・テルの本
シラーより前の1507念に発行されたウィリアム・テルの本


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