オーストリア散策エピソードNo.001-050 > No.006
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マリア=テレジア、プロイセン王に一撃
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マリア・テレジア
オーストリア大公女時代のマリア=テレジア

プロイセン国王フリードリヒ2世といえば、啓蒙専制君主の模範ともいわれる王ですが、オーストリアにとっては不倶戴天の敵みたいな存在でしかありません。若いときは芸術を愛するデリケートな皇太子と見られていたのですが、父王の後を継ぐや、突然厚顔で大嘘つきで好戦的な国王(すみません、私は個人的にこの王が大嫌いなものですから)に豹変しました。

そのフリードリヒ2世のターゲットにされた領地のひとつが、ボヘミアの北東にある肥沃なシュレジエン地方です。ここはハプスブルク家のご領地だったのですが、前帝のカール6世が亡くなってマリア=テレジアが帝位を継承するや、フリードリヒ2世が「女の帝位など認めない」とほざいて1740年12月16日に進軍、同地方をあっさり占領してしまいました。ついでながら、フリードリヒ2世はの女性蔑視はかなりのものだったといわれます。

さて、この事件は、その後ハプスブルク家の巻き返しもあり、1848年のアーヘンの和でいったん休戦となります。しかし、フリードリヒ2世はあきらめません。そしてそれが、この女嫌いの王をひどく後悔させることとなりなす。戴冠したとき23歳のうら若きオーストリア女帝だったマリア=テレジアが、予想外にもなかなかのやり手だったからです。マリア=テレジアはさっそくプロイセン対策を打ちました。号令をドイツ語で統一し、有能な人材を登用し、貴族と平民の差別がない兵学校を創設して、軍隊の立て直しを急ぎます。また、自国内で2番目の多数派を占めるハンガリー人の心をつかむため、乗馬の腕(ハンガリー人は元騎馬民族)を磨く一方で、巧みな泣き落としも使いました。ついでに義務教育の普及を図るなど、中長期的な国の発展の基礎作りまでするなど、用意周到さも発揮します。

さらにマリア=テレジアは、これまで仲の悪かったフランスとロシアを自国の味方につけることにも成功します。ちょうどルイ15世の愛妾で才媛のポンパドール夫人とロシアのエリザベート女帝も、フリードリヒ2世の女性蔑視をにがにがしく思っていましたから。さあ、これで3国によるプロイセン包囲網の完成です。この作戦はフリードリヒの女嫌いを皮肉ってか、「3枚のペチコート作戦」などと呼ばれました。

これだけの準備を整えられると、いかに強力な軍国プロイセンといえども、そう簡単に勝つことはできません。1756年に始まった7年戦争では、フリードリヒ2世が何度か毒を仰いで自決する覚悟する場面もあったほどです。プロイセン軍はまさに風前の灯火。そこで女嫌いのフリードリヒ2世は負け惜しみを言いました。「オーストリアにはすごい男がいる。しかも、その男は女だ!」と。自業自得です!

ただ、最後の詰めのところでロシアのエリザベート女帝が崩御、後を継いだピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者で、オーストリアとの同盟を破棄します。この皇帝はすぐ失脚しましたが、その次のエカチェリーナ女帝は、もはや同盟に参加の意思がありません。プロイセンは命拾いをしました。そして1763年、この戦争は痛み分けで終結しました。ただし、プロイセンのハプスブルク領侵略は打ち止めです。フリードリヒ2世は、本当に痛い一撃を喰らいました。


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