オーストリア散策書棚 > No.38
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バロックの愉しみ
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バロックの愉しみ


出版元 筑摩書房 発行 1987.7.20 (初版)
著者 荒俣宏、池内紀、高橋均、
種村孝弘、田之倉稔、鶴岡真弓、
丹羽谷貴志、沼野充義、吉田彩子
体裁 15cm×22cm
ページ数 255ページ


目次

前書き バロックへの招待状 ・・・巻頭
第1章 カルトゥーシュの装飾論 - バロックの襞 ・・・1
第2章 不健康な誘惑 - バロック期の博物学事情 ・・・35
第3章 行列と繁茂 - ラテンアメリカ・バロックの諸相 ・・・69
第4章 バロックの蒐集理論 - フェルディナントとルドルフ ・・・105
第5章 バロックの演出家たち - フィレンツェからパレルモへ ・・・129
第6章 ある修道院物語 - メルクへの旅 ・・・157
第7章 無謀な《生》 - スペインバロックの文人たち ・・・175
第8章 文法の迷宮 - スラブ圏のバロック文学 ・・・205
第9章 雪崩る鏡 - 「生の日曜日」のために ・・・229


ひとこと


この本はオーストリアだけでなく世界のバロックを扱った本です。また、巻頭には「バロックへの招待状」と書いてありますが、その「招待」の相手というのはどうも入門者じゃないようです。読んでいるとけっこうマニアックなことが「知ってて当然」のように扱われていますから。たぶん、華道をやっている人にしか華展の案内状が来ないのと同じなのでしょう。もっとも、初歩的な解説なしでいきなり本題に入っていく分、マニアにとっては読み応えのある1冊でもあります。    

私がこの本を買ったのは、オーストリアのメルク大修道院が建設されたいきさつが詳しく書いてあったからです。また、インスブルックの王宮にある芸術コレクションについてもいろいろと新しいことを知る機会ができ、これは思わぬ拾い物でした。    

ちなみに、バロックということばの定義は国によっても時代によっても、あるいは人によってもかなりバラツキがあるようす。これはマジメに考えたら厄介ですね。しかし、気楽に考えるならどんなふうに理解してもOKということにもなります。この本もバロックとは何かなんてあまり決め付けてはいません。ひょっとしたら、そうした理解の自由度の高さが「バロックの楽しみ」のポイントなのかも知れませんね。    

ちなみに、オーストリアの歴史だけ見ている私は、「欧州の自信」と「新たな実力社会の始まり」がバロックの背景にある重要なキーワードではないかと考えています。    

「欧州の自信」と見る理由は、バロックが17世紀に始まった点にあります。その昔、十字軍で中東に行ったヨーロッパ人がそこで見たものは、自分たちよりもずっと進んだ社会と文化でした。が、欧州がイスラム圏に対するコンプレックスを隠すため古代ギリシアに思いを馳せたルネッサンスの時代を経て1683年になると、キリスト教軍がオスマントルコの第二次ウィーン包囲を破って勝利。そのあたりから欧州と中東の力関係も逆転してきます。そして、派手派手なバロック様式の建築物が目立って増えてきたのも、ちょうどその頃からです。これは、欧州が中東に追いつき追い越せを卒業したことへの自信を目に見える形で表そうとしたためではないでしょうか?    

一方、「新たな実力社会の始まり」と見る理由は、バロック時代の欧州で家柄がダメでも出世のチャンスが生まれてきたころにあります。オーストリアですと、マリア・テレジアが農民の子も入学可能な軍事アカデミーなどを創設するとともに、下級貴族の子弟でも才能ある人材には責任ある職務と高い地位を与えました。こうして生まれた新しい実力者たちが、大袈裟な装飾や風変わりなコレクションで世の中に凱旋を考えたのではないかと思うのですが。    

とはいえ、「自信」が行過ぎると「尊大」になってしまいます。バロックがしばしば極端すぎとかアンバランスすぎといってアホ扱いっされるのも、そこにひとつの理由があると思います。そして、「自信」と「尊大」の両方が並存しているところは、バロックに対する解釈や評価がなかなか定まらない一因ではないかと思います。まあ、ホントのところはその時代を生きた人じゃないとわからないでしょうけど、こうしていろいろと想像する余地があるという点で、確かにバロックは「楽しめるもの」であるかも知れませんね。    



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